結婚前夜ーー旦那様は高校生ーー
 ワアァァッ!

 会場の中は歓声と拍手がわんわん鳴り響いていた。ステージを正面と左右の三方から囲むアリーナ席と、アリーナから通路を挟んだ一階席。首をめぐらすと二階席もあって、ざっと見ただけでも数千人は収容できる。その座席が八割方埋まっていた。
 
 すでに大会は始まっていて、ステージで二人の男の人が踊っていた。観客席で立ち上がり、拳を振り上げている若い男の子たち。蛍光カラーのベストを着て写真を撮る専門誌のカメラマンたちや、肩口にカメラを背負って取材するスタッフ。ステージから色とりどりの光が点滅して、歓声と同じくらいの大きな音楽が流れる。

 エネルギーが凝縮してほうぼうで火花を散らす、こんな場所は今まで来たことがなかった。けれど立ち尽くしたのは一瞬で、受付で渡されたチケットを握りしめて人波をかき分けて歩いていく。後ろで両親がなにか言っているけど、聞こえないふりをした。

 あんた、と声をかけられたのはそのときだった。聞き覚えのある低い声。はっとして振り返る。

「…………あ」
 悠樹の両親が立っていた。

 眉間に太いシワを寄せて、険しい顔でこちらを睨んでいる橘。由果も驚いたように例の細い目を少し見開いていた。
 はじめて会った数週間前がよみがえる。ガラスコップを縁どって落ちる水滴。橘の蔑むような視線。風でざわめく庭の木々。
 身体が強張って、喉の奥で声が固まる。会場の歓声も遠くなった。

「知り合いか」

 父の声で我に帰る。振り返ると、父は聞く前から答えがわかっているかのように橘を見据えていた。
橘もピクンと眉を寄せ、夏帆から父へと視線をずらした。二人の視線がぶつかる。
 日に焼けた橘と比べると、色白で猫背の父は簡単にひねり潰されそうに見える。それでも父のめがね越しの目は険しかった。お互いを値踏みしあうような視線。夏帆はぐっと唇をかみしめた。

 最悪だ。

 悠樹が呼んだんだ。それならそうと、言っておいてほしかったのに。 
 凍りついたように立つ四人の間を、ダンサーたちが数人、騒がしく話しながら通り過ぎていった。

「それで、あの子の番はいつなの?」
 ふいに母が口を開いた。夏帆が振り向くと呆れた顔でこっちを見ていた。
「もともとそのつもりだったんでしょ。まぁ、なにかあるとは思ったけどね。ミドリちゃんがフラメンコやるなんて、聞いたことないし」
 母はそう言うと、サッと悠樹の両親を振り返った。

「どうもはじめまして。この子の両親です。うちの娘がなんだかご迷惑おかけしたみたいで、ほんとすみませんね。見ての通りのバカな子でして。ところでプログラムお持ちですか? いやね、こんな場所はじめてなもんですから。私のコーラスの発表会とはぜんぜん違う雰囲気で」
 ホッホと母が笑う。皆、毒気を抜かれたような顔で母を見る。だれより驚いていたのは父で、おい、と小さい声で母を諌めようとする。母は父を無視してニコニコと笑っている。こうなると、社交的な母のほうが強い。由果もなぜかつられて、鞄からプログラムを探し始めている。

「あぁ、迷惑しとるよ」
 橘が、腕を組んで言った。四人の間を野太い声が響きわたる。
「このお嬢さんがね、うちんとこの息子に手を出しよっただ。悠樹はまだ十六だにん? どんな教育をしただかね」
 母の顔から笑顔が消えた。父がめがねの奥の目を見開く。一瞬、たしかに傷ついた眼差しが見えた。

「訂正してください」
 おもわず言っていた。
「私たちのことは、両親になんの関係もありません。取り消してください」

 私、なに言ってるんだろう。どこか冷静な自分もいる。いま一番仲良くならないといけない相手なのに。こんな言い方、絶対まずいのに。

 夏帆。小さく母の呼ぶ声が背中に聞こえて、いつもよりもうんと小さいその呟きを拾ったら、やっぱりこれでいいという思いが心にどんと乗った。
 橘の顔が歪んで、歪みながら口を開く。

 その時だった。ふっと会場の照明が消えた。突然訪れた暗闇に辺りを見回す。すぐにすべての照明が点いた。と同時に、たくさんの拍手。
「悠樹」
 ふいに由果が呟いた。視線は遠くのステージに注がれている。
 振り返ると、白いステージには男の子が立っていた。知らず握りしめていた拳をゆるめる。
 
 悠樹だ。

 ステージを囲んでる観客が拍手する。興奮して立ち上がっている集団もいる。ユーキー! だれかが叫んだ言葉が、悠樹の名前だと遅れてわかった。悠樹は堂々と両腕を伸ばして手を振っている。

 悠樹、人気あるんだ。
 夏帆はステージで手を振る悠樹をぼんやりと眺めた。
 母が夏帆に囁く。
「あの子って有名なの?」
 夏帆は悠樹を見たまま、よくわかんない、と呟いた。そもそも、悠樹の大会を見るのはこれが初めてだった。何度も来てほしいと言われたのに、いつも行きそびれていた。

 ううん、本当は、どこかで避けていた。だって――。
「なんも知らんのか」
 橘が腕を組んで夏帆を見下ろした。夏帆が黙っていると視線をステージへと向ける。
「あいつは中学に上がる頃はもうダンサーになる言うて、色んな大会に出とったよ。十二のとき、地元の新聞の記者が家まで来ただで。よく知らんが、なんとかちゅう大きい大会で」
「中部スティアーズ・コンペティションね。噛んじゃいそうだらぁ」
 おっとりとした口調で由果が言葉を継いだ。夏帆を振り返る、笑ってるような細い目。
「あの子、昔から踊ってばっかだで」
 頬に手をあてて、困ったような口調で話しても、ステージの息子を見る横顔は誇らしげに見えた。

「うちはなんもありゃせん田舎だもんだい、高校だって三つだけ。周りの子たちはその三つから選ぶんよ、学校を。なのにあの子、どうしても東京行きたいって」
 ふぅと小さなため息をつく。
「言い出したら聞かんもん」
 由果は、ちらっと夏帆を見た。
「めったに連絡してこんあの子から、今日来てほしいって言われたとき、なんか予想しとったわ」
 由果は相変わらずおっとりした口調で言った。
「そいだけど、あの子まだ十七歳じゃんねぇ。結婚なんてね、まだまだ先。夏帆さんのご両親も、そうだらぁ」
 朗らかに笑いながら夏帆の両親に視線を向ける。

 夏帆は三人の視線から逃れるようにステージを見つめた。見つめた、というか睨んだ。

 なに考えてるのよ悠樹。なにも言わないで、勝手なことしちゃって。

 夏帆の気もちも知らず、悠樹がゆっくりと体を動かし始めた。猫背のような状態から、胸を反らせて、アップ。ダウン。
 いつものように悠樹がダンスの準備をする姿を、夏帆はじっと見ていた。

 きれい。

 怒っていたことも忘れてそう思う。

 悠樹の意識が深い深いところまで降りていっているのがわかる。

 悠樹は今、全神経を集中させて体を調律している。ヴァイオリニストが演奏の前に弦をひと振りするように。ダンスは体で奏でる音楽だ。

 ステージ脇に設えたスピーカーから音が流れ始める。ふっと悠樹が顔を上げた。
 刹那――爆ぜた。

 足が大きく前に出る。振り上げられた手が耳元で回転する「トゥエル」。そのまま空間を叩いて「パンチング」。足を左右に繰り出す「スクービードゥ」。ムーブがつながってつながって、ひとつのダンスを生む。

 ひとくちにストリートダンスと言ってもさまざまなジャンルがある。悠樹が得意なのはロックダンスと言われるダンスだ。速いスピードで動いて、次の瞬間パッと急停止する。また急発進するそのくり返しのメリハリが、見ている人を引き込むダンス。まるでどこに行き着くかわからないスポーツカーのよう。

 照明の色が変わった。白いスポットライトが太陽のように悠樹を照らす。
 体が跳ね返る。高い。観客が興奮した声をあげる。誰かが高く指笛を鳴らした。その音にあわせるように、細長い指がピタッと空を指して止まる。

 一瞬の空白。

 それからまた動き出した。今度はもっと早い。早送りの十倍速。オーケストラがクライマックスに向かって加速していくような。観客が立ち上がって楽しげに手を叩く。

 でも、と夏帆はおもう。踊ってる本人はもっと楽しそうだ。笑う悠樹から金色の粉が降りそそぐみたい。輝きが観客の間を伝播して、波のように会場を揺らす。夏帆は無意識に微笑んでいた。

 悠樹がダンサーとして有名なのか、よくわからない。それでもここにいる人は、たとえ今日まで悠樹のことを知らなくたって、もう悠樹のダンスが、悠樹というダンサーが忘れられないと思う。母だって、驚いたように口元に手をやって、じっと見入ってる。

 こうやってあの少年は味方を増やしていくんだ。誇らしいようにも、少しさみしいようにも感じる。
 夏帆だけのダイヤの原石じゃない。いつかは羽ばたいていきたいひと。

「すごいな」
 ずっと黙っていた父が呟く。ステージと比べるとずいぶん暗い観客席で、その表情はあまりわからない。
「すごいが、おまえとは釣り合わない。年齢以前の問題だ。彼とは住む世界がちがう」
 父の言葉を後押しするように橘が頷いた。
「そのとおり。あんただって本当はそうおもっとるだらぁ」
 夏帆はなにも言えず、黙ってステージを見た。

 やがて音楽が止まり、ダンスが終わった。だれもがふっと夢から醒めたように黙る。
 歓声の後の沈黙。その一瞬後、割れんばかりの拍手が会場を満たした。悠樹が自信に満ちた顔で手を振る。汗が光の粒のように首筋から落ちている。
 
 こういう気もちになることが予想できたから、大会に行きたくなかったんだな。
 どこか他人事のように考える。
 ステージに立つ悠樹は、強くてきれいで、遠い。

 やばいな。なにか言わないと、自分を奮い立たせないと。でないと、このまま負けてしまう。そんなのは困るのに。

「帰るぞ」
 父に肩を押される。
「ちょっと待ってよ」
「もう見ただろう。これ以上ここにいても無駄だ」
 母も隣から、ほら早くしなさい、通路混んでるんだからと言ってくる。悠樹の両親は反対にステージに向かって近づいて行く。人と人の間に紛れて、あっという間に離れていく。夏帆はもう泣きたくなった。
「ちょっと待」
「待ってください」
 ステージから声があがった。振り返ると汗だくの姿で、マイクを握った悠樹がこちらを見ていた。
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