刹那との邂逅
前編
 世の中の大半の人は「隣の芝生は青い」と思っている、と蓮(れん)は常々感じていた。それは自分を対象にして、多くの人間が「そう」……つまりは、自分の芝生を青いと思っているのだろうとさえ感じている。

 言い換えれば、多くの人間は『椎名蓮』という人間が羨み、何でも手中に収めているような……そんな順調な人生を歩んでいるカテゴリの人間と見ているということだ。

 しかし、他人が思うほど自分の芝は青いとは――要するには順風満帆には程遠いと蓮は感じている。

 どうしてだろう、こんなにも他人が見ている自分と、真実の自分がかけ離れているのは……その差異に重苦しさともどかしさを日々感じつつ、今は身体のだるさに重苦しさを感じながら、蓮はマンションのキーを鞄から取り出した。

 時刻は午前6時。

 世間一般的に言われる『朝帰り』の最も遅い時刻のモノである。

 鬱々と溜まるものを吐き出せず、マネージャーを相手にダラダラ飲み歩いた末の帰宅。そんな蓮を迎え待つ人間はおらず、酔いのせいで重い身体を引きずるようにマンションのエントランスを歩いていた。

 ひたり、ひたりと一歩ずつを踏みしめて歩く。

 その一歩一歩を踏むごとに眉間に皺が寄っていくような気がする。

 しかし蓮が3歩目を踏み出した時、彼の左腕を体が傾ぐほどの力でもって後方に引っ張られた。

 「な、に……!?」

 酔いに揺蕩(たゆた)う身体は、徐(おもむろ)にかけられた力に対抗することは困難で、かろうじて慌てる声だけが漏れる。

 態勢が崩れそのまま倒れることを覚悟した蓮だったが、彼の後ろで叫び声を小さくあげながら支える手によって、どうにか倒れることを免れた。

 「はー、危なかったぁ」

 聞こえる声と背中に当てられた手に覚えがなく慌てて蓮が振りかぶると、小柄で折れそうな程細い体の少女が立っていた。

 「あ……?」

 何が起きたのか状況を掴み切れない蓮は、言葉を上手く発することが出来ずようやくそれだけを口にする。

 しかし状況の飲み込めない蓮とは裏腹に、彼の顔を見てにんまりと嬉しそうな笑みを少女は浮かべると、普通よりも少し高めだろう声で、蓮に向かって呼びかけた。

 「椎名、蓮さん?」
 「……何?」

 突然名前を呼ばれ、戸惑いを隠せないまま険のある声で蓮は返事をした。ゆっくりと考えてみれば、どうやら自分の腕を引っ張ったのも、背中を支えたのも目の前の彼女であることがわかる。

 つまりは自分に用があるのだろうと、蓮は遅ればせながら状況をそれとなく認識した。
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