マネー・ドール -人生の午後-
 田山くんの車を見送って、デスクに座って、退職届を書いた。
 日付は、来週の月曜日。
 これを出せば、私は自由になる。
 封筒を閉じて、手帳に挟んだ。先月のページまで、スケジュールはぎっしりなのに、今月から、急に真っ白。
 私って、ほんとに仕事しかないんだ。
「なんだったのかな」
 一人で呟くと、ちょっと涙が出てきちゃった。
 『さよなら、みんな。ありがとう』
 今日の日付のスペースに、そう書いて、私は、手帳を閉じた。

 さて、今日は、慶太遅いかな。久々に、なんか作ろっかな。オーブンがどうとか言ってたし。
帰る時間をメールで尋ねると、電話がかかってきた。
「今日、八時くらいに帰れるよ」
 なんだか、慶太、嬉しそう。どうしたのかしら。
「久々になんか作ろっかなって思って」
「ほんとに? じゃあ、絶対早く帰る!」
「無理しなくていいよ」
「無理するよ。だって、真純に早く会いたいから」
慶太は笑って、好きだよって言った。
「ねえ、何食べたい?」
「そうだなぁ。あ、あれ。ローストビーフ!」
子供みたいにはしゃいでる。何か、いいことあったのかな? 

 四時か。お買い物、行こうかな。
 昼間のスーパーは意外に空いてるのね。
 うーん、いいお肉がないなあ。そういえば駅前にお肉屋さんがあったよね。慶太は何かと、昔から食べ物にはうるさいから。
 あ、オーブン、ずっと使ってなかったけど、使えるのかな。使えなかったら、このお肉、どうしよう。
 そうだ。レシピノート、どこいったっけ。あのマンションに引っ越してから、一度も見てないような。

 とりあえず、オーブンは……
うん、使えるみたい。さすがは、ドイツ製。そういえば、このマンションも、このシステムキッチンに惹かれて決めたんだっけ。全然、使ってこなかったけど。
 あとは……レシピノート……うーん、どこだろう。私の部屋にはないよね……
慶太の部屋かな。ああ、慶太の部屋、初めて入るかも。

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