サニーサイドアップ
25.
 「残業。」
  と、打って、もう一度消す。正直に「学生時代の友人と飲みに行く」と打てばいい。弓音は溜息をひとつついて、結局どう書いたところで夫は気にしないのかもしれない、と思った。

 ロッカーの扉の裏側についた小さな鏡に映った自分をまじまじと見つめる。おでこと鼻の頭が少し光っている。それなのに小鼻の横は少しかさついているように見えた。弓音はハンドバッグの中から化粧ポーチを取り出した。時計を見る。待ち合わせまでまだ時間があった。

 金曜日の終業時間ギリギリの化粧室は入れ替わり立ち代り満員御礼だ。それでも隙間に手をねじ込むようにポーチを置いて後ろで化粧を直す。そうこうしていれば順番が回ってくる。誰かの言う「お先に」と別の誰かが言う「お先に」そして、自分が言うはずの「お先に」の隙間で、些細な今日気に入らなかった出来事、気になることを器用に手を動かしながら話す。時折笑い声が聞こえたり、「えー」という驚きの声が聞こえたりする。弓音は聞いているような聞いていないような顔で、いつもよりほんの少し丁寧に化粧を直した。

 「いつもとほんの少し違う」ということがどれほどの違いなのか、そのことの意味も、年を重ねれば重ねるほど重大さを増す。そのことに気づいたのは、つい最近だ。

 毎日持って行って残さずに平らげて来た昼の弁当をある日突然「食べられなかった」と言って残してくる。それは、いつもと違う些細な出来事だったが、その数ヵ月後にまた同じようなことがあって、そのうちに、二ヶ月に一度そんなことがあるかなと思うと一ヶ月に一度と増える。昼ごはんを食べられないくらい忙しいのだから当然残業は増えて、泊まりになる日があって、ある日整髪料の香りが変わる。「変えたの?」と尋ねれば「この前会社に泊まった日に買った」という何ということも無い答えが返ってくる。
 何かが違って来ている、と気づいたときにはもう、何もかもが少しずつ違い過ぎている。どこがどう違うかと言葉にすることも出来ないくらいに、ゆっくりと姿や形を変えているから、元の姿も思い出せないのだ。
 それは、以前テレビでやっていた、脳の力の話とよく似ている。絵はほんの少しずつ姿を変えているのに、見ているときは気づかない。変化以前と変化以後の二つの絵を並べてみると、まったく違う絵になっているほど変わっているのに、変化していく経過を見ているとどこがどう違ってきたのか分からなくなっているのだ。
 そう、たかが弁当を残してくる、という小さな出来事が実はどんな意味を持っているのかなんて、考えたくもなくなる。知らぬ間に変化を受け入れ続けた自分が、何を見過ごしてきたのかなど、もう、どうでもいいことだ。変わってしまった物を、元に戻すことなどきっとできないのだから。
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