逃亡記
暗い森
明るい夜。

雲ひとつなくて、月だけがひたすら明るい。だから遠くまで見通せる。彼方には森が黒々と浮かび上がっている。

しつこくまといつく草をサンダルばきの足で踏みつけながら、ゲルダは光の消えた眼でそちらの方を見やった。

明るくて見通せるのは、敵にとっても同じこと。ぬかるんだ草地で足をとられ転倒する恐れもない代わり、敵からも彼の姿はまるわかりなのだ。

彼は焦っていた。

王国が彼に差し向けた追っ手ラーミアンは元貴族で、いまは軍隊の汚れ仕事を一手に引き受け、しかもそのことに屈辱を覚えるどころか喜びを隠そうともしない、稀代のサディストで変人で変態なのである。

ラーミアンの手に墜ちたら、おれはどんなめにあわされるやら。目潰しに生爪はがされるくらいはまだまだ前菜といったところ、舌をぶっとい針で貫かれたりその同じ針で眼を抜かれ眼窩の奥までぐりぐりされたり…。

ゲルダは空を仰ぎ、一瞬月を眺めた。

三日月だ。三日月はおれを救ってくれない。

妙な恨み言ひとつ呟いて、また歩き始めた。

体力はもうすでに限界に来ている。足がもつれ何度も転びそうになる。それでも、前へ、前へ。未開部族との争いで名を馳ながら最後はあまりに血も涙もない未開人の扱いに反感を覚えていた副将の裏切りで未開人にとらわれ頭の皮を剥がれて死んだ伝説の猛将カスター准将のように前向きな号令をしきりと自分にかけながら、一歩また一歩とゲルダは機械人形のように歩いていった。

やがて目の前に森が見えてきた。森からはギャーギャーと生物の奇怪な鳴き声が聞こえる。それでも彼は森に入った。

森を迂回して進むだけの体力はもはや彼には残されてはいない。

どこか、身をかくし身体を休めることのできる頑丈な一本の樹を。

それだけを求めて、ゲルダは黒々した森に入ったのである。

獣や人が通り自然にできた道が、ゲルダの歩いてきた方から森の中まで続いていた。まるで侵入者を拒むように延びた枝や葉を腕で払いながら、森の中を少しずつ進んでいく。

暗い森の中なので、右も左も前もうしろも、なにも見えない、分からない。それでも、手探りで進んでいくと、枝と枝の間から月光が漏れて少しの空間に僅かな光をもたらしている箇所がある。

そういうところに出るとゲルダはほっとする。木にもたれて少し休む。そしてまた歩き出すのだ。

恐怖が彼を駆り立てていた。もう三日もまともに寝ていない。寝不足の、機能不全な頭では、脳の奥深くの感情中枢の暴走を抑えることができない。

いわば、いま彼が動いているのは、火事場のバカ力であり理性的合理的な判断力によるものでは決してなかった。

それが証拠に、かさとでもなにかが動くもの音を聴けば、

ラーミアンが来た!とそのたび軽いパニックに陥って背中の大剣を抜き無茶苦茶に振り回そうとする。

土台、森の中だから、大袈裟な剣など振り回せるスペースはないのだが。焦って剣を構えようとして枝にひじをぶつけ、痛みから剣を落としそうになったこともあった。

三回、そういうことがあって、いまようやくゲルダも自分を振りかえる気になった。

ため息とも微笑みともつかぬものを口からもらして、本格的な休憩をとることにする。

小さな空間に足を曲げて座り、膝頭に額を押しつけて眼をつむった。

たちまち、睡魔が押し寄せてくる。

夢の中でも彼は襲われていた。

只、夢のなかで彼を追うのはラーミアンではない。

それは龍であったり樫の杖を振りかざす老人であったり顔だけの美人たちであったりした。

夢にうなされていた彼が眼を開けると、彼の耳元に獣の気配があった。

はっはっという息づかいの音が聴こえる。

たちまち、緊張に身を硬くする彼。びくりとふるえ、背中の剣に手を伸ばす。
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