小春日和


痺れが続く耳をそっと左手で包み込む。


電車の中ではいつも私の向かい側に座るはずの湊が、今日は私の右隣にぎこち無く座った。


駅に着くまでも、信号待ちで止まるたびに前にいる彼がこちらを確認するように振り返ってきていた。


こんなにわかりやすくしてくる事なんてないのに。


おかげでこちらは居心地が悪くて仕方がない。


それは私だけではないと伝わってくるせいで、隣にいるのが湊ではないように思えてくるほどだ。


イアホンで塞がれた彼の耳には、私の体の中から響いて止まない雑音も何も聴こえない。


怖いのか、緊張しているのか、恥ずかしいのか、わからない。


ただずっと、早く駅に着いてほしいと願うばかり。


電車が大きく揺れたせいで肩がぶつかると、湊の瞳に自分が映った。


その瞬間、私も彼の世界に取り込まれた。


車内にアナウンスが流る。


しかし、それはどこか遠い。


私の耳は、聴こえないはずの彼の世界の音を捉えていた。


「降りるぞ」


「…うん」


目の前の中学生より私達はぎこちなく肩を並べて歩く。


改札を通って間もなく湊がイアホンを外したので、私は慌てて距離をとった。


そんな私の態度が気に食わなかったのか、思いっきり睨まれた。


睨みたいのはこっちだ、と言わんばかりに負けじと睨み返す。


そんな私にため息をついて視線をそらすと、彼は深い溜息をついた。


この時の私は、何故かそれがとても腹が立った。


耐えられなくなり、ついに、私は貯めていたものを彼の目の前で大声で吐き出した。


「湊が変な態度とるから調子狂うの!今まで私のことなんて視界の隅に入れておく程度だったくせにッ…。アンタってホント何考えてるのかわからないし、心臓痛いし、居心地が悪くて仕方ない!!」


あぁ、やってしまった。


そう思ったのは言葉を発している途中の事だった。


「お前、ここ駅…」


思考が全然追いつかない。


考える前に口が動く。


目頭がひどく熱くなり、喉が涸れて声が掠れている。


訳がわからないのに、涙だけは確かに流れていく。


「煩いバカッ!!!私の話なんて聞く気ないでしょ?!」


怒鳴りつけた私に舌打ちをすると、湊は私の手を引いてその場から逃げるように走った。


人の目が向けられていることに気づいた時、私は軽い目眩がした。


それでも腕を引く彼の背中を見ながら、私も必死に足を動かした。


駅からかなり離れた場所にある公園で彼が足を止めると、私は掴まれていた腕を振り払った。


また睨まれると思ったけれど、彼は私を見ようともせずに自販機の方へ歩いて行った。


それが余計に腹立たしく思えて、私も彼に背を向けた。


青々とした葉が風で揺れる度に、熱くなりすぎた体や頭を冷やしてくれるような音が聞こえる。


ふと目についた滑り台の階段を登って頂上に立つと、木々の隙間から沈みきった夕日の光が僅かに見えた。


「さっきの何」


目線を下に落とすと、湊がこちらにリンゴジュースを投げてきた。


小さめのパックに入ったそれを飲みながら腰を落とす。


それほど高くない滑り台だったので、座ると隣に立っている湊が思いの外近くなった。


「この距離がいいの」


私の話を聞くときは、彼は私が話し終わるまで相槌さえしない。


無言は聞いてくれている証拠だと知っている。


私もできるだけ彼に合わせていつも通りに戻すために、自分自身を落ち着かせるようにそっと話し始めた。


「急に近くに来られたら戸惑う。いつも通りの距離がいい。…湊もそうでしょう?二人して緊張してた」


今のこの距離さえ近く感じる。


それはきっと彼も同じ。


滑り台を滑り降りると、私の全身を包むように影が伸びていた。


見上げると、影は街灯の光を背に浴びた彼の影だった。


まだ薄明るいから彼の顔は見える筈なのに、見慣れたその顔に浮かんだ表情の意味が私には理解できない。


林檎の香りが胸をざわつかせる。


この時、身体に変に力が入った。


気まずくなると必ず、彼は2つジュースを持って来る。


そうすれば自然と元に戻ってしまう。


私と彼の間では言葉より早く気持ちを伝え会える手段であり、簡単に仲を修復する手段。


だから、なぜ今こんな空気になっているのかさえ私には分からなかった。


「春」


握り潰されたパックが音を立てる。


それは彼にこの表情をさせている、彼の心そのもののように見えた。


何かを言いたそうに動く口は、一度閉じたあとまた開く。


何度かそれを繰り返した後、彼は絞りだすように言葉を発した。


「俺は、春が安心する距離にいると居心地が悪い」


どこか落ち着いているけれど、それはいつもとは違う雰囲気を帯びた言葉だった。


この空気に染められたわけではない、彼の心を写した言葉のように思えた。


見つめ合ったままお互い動けずにいたが、彼は唇を噛むと私に背を向けた。


この時言葉を発することができなかったのは、喉の痛みのせいではなかっただろう。


ただ私は、私にかかる影を見つめることだけで精一杯だった。



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