雷鳴館
一章
昭和59年五月


思い知らせてやるから!
今年の八月で七歳になる土居百々子は突き上げてくる母親への怒りをぶつけるように、卵ほどの大きさの石を草むらに蹴り入れた。
背中にはパンパンに膨れた黄色いリュックを背負い、早くも日に焼かれ始めた小麦色の顔は早歩きをしている為真っ赤になっている。
最近、とみに母親の自分にたいする不等な扱いが目についてならない。
昔は良かった。お母さんは今よりずっと優しかったし、綺麗だった。気が向いたらクッキーだって焼いてくれたし、友達を家に招いてもニコニコしていた。
それが、あれ以来どう?
あれ…あの四六時中泣きわめいて手のつけられないあれ。やることといったら、だあだあ言いながらヨダレを垂れ流すかくさいうんちをオムツからはみ出させるしかない動物…いいえ、と百々子は分別くさい顔をして石垣に丸くなっている猫を見上げて確信した。
動物以下よ、犬や猫ならとっくにトイレくらい自分でいけるもの。
その昔、彼女自身のオムツ離れが遅く、そのために母親が本気で心配して泣きながら小児科の先生に異常ではないのか相談したことも知らない少女は断じてあれを「弟」等とは思いたくなかった。
よたよたと家中をオムツしかつけてない姿で歩き回られることに無性に腹が立った。
なんにも出来ない、椅子を舐め、ソファを舐め、あらゆるものを舐め、あろうことか私の教科書まで舐めたケダモノ。
それなのに、悲鳴をあげて教科書を奪い取った途端にどたん、と尻餅をついて一瞬のち大声で泣き出したあれを母親は叱るどころか血相を変えて抱き上げて私を睨み付けた。
昔は綺麗に櫛でとかされ、艶々した黒髪だった髪を振り乱して。化粧もしていない目尻を狐みたいに釣り上げて。

なんで、あんたは弟に優しく出来ないの?

キリキリ頭のなかに差し込んでくる甲高い声。最近はずっとこの声しか向けられていない気がする。
同じクラスの飯塚直子との交換日記にそのことをぶちまけ同情を得ると、ややスッキリはしたもののランドセルを置いてちゃぶ台の上の置き手紙を見た途端に母親への憎しみが再燃した。

百々子へ お母さんは夕月堂に買い物に行ってきます
ちゃんと留守番をしてください

百々子は斜めに跳ね上げるような文字を一読し、さらにゆっくりと読んだあと狼が獲物を噛み砕くように手のなかで紙を丸めた。そう、お母さんは私もデパートに行きたいかもしれないとは夢にも思わなかったわけ。夕月堂にある沢山の洋服屋や玩具屋さんを見たいとは、五階にあるレストランのソフトクリームを食べたいとは思わなかったわけ。でも「あれ」は連れていったんだ。汚ならしい紺のバギーに載せて、王様気取りでむくむくした足をはみださせてる「あれ」は連れていったんだ。
目がじん、と痛んで自分が泣きそうになっている事に気づいて深呼吸した。
もういい、お母さんなんかいらない。ましてや「あれ」なんかいらない。私が居なくなって後悔するがいい。

こうして百々子は気持ちのよい初夏の午後三時に思いつく限りの家出に必要と思われる荷物を詰め込んで歩いているのだ。
九時からの連続ドラマを見逃してしまうという事実や、明日提出しなくてはならない宿題などのことに思考が揺らいでいくと漠然とした不安感を封じるために繰り返し繰り返し母親の冷たい置き手紙を、その内容に含まれた不公平さを思い出すのだった。
あれが安心しきって母親の腕に抱かれて眠っているところや、それを見て微笑み鼻面にキスをする母親、脱げた靴を履かせたり、ばぶちゃん煎餅と呼んでいる馬鹿げた味のない煎餅を小さな手に握らせてやる母親を想像するだけで怒りを持続させるには充分だった。
しかし、考えなければならないこともある。
つまり、どこへ向かえばいいのか?
これには怒りとは全く別方向に頭を使わなければならなかった。
直子の家?いや、だめだめ。そんなのすぐ見つかっちゃうしそもそも直子のお母さんがチクるに決まってる。
じゃあ、くじら公園?
それは一考の価値があったが、気は進まなかった。前に汚ならしい格好をしたおじさん…「浮浪者よ」と夕方のニュースをかかさず見ていると豪語する安藤奈津美が百々子の脇腹を肘でつついて意味ありげに囁いた記憶が甦った…が、くじら公園のベンチに横になって新聞紙を腹にかけただけの姿で寝ていたのだ。
奈津美は二重跳びの練習にと持ってきていた縄跳びを後ろ手にして、「あんた知ってる?浮浪者ってさ、小さい女の子にイタズラしたりするんだってよ」とどことなく下卑た微笑を漏らしながら百々子の表情を伺っていたっけ。
その浮浪者が今日も公園にいるかどうかは解らないが、もし居たとして後ろからワッと脅かされたり石を投げつけられるようなイタズラをされるのは真っ平ごめんだった。
いい年をした大人がそんなことをするとは信じられないような気もしたが、奈津美の情報を甘く見てはいけないことも事実だ。なにしろ、大人が見る夜のニュースまで時々は見ているらしいのだから。
となると、はたしてどこへ向かうべきか?

ふとこのままこの道を行くと直子の家の側を通ることに気づいた。
あるアイデアがひらめき、百々子は直子の家に向かった。
黒い鉄で出来た洒落た門を開き、呼び鈴を押すと奥からはぁいと声がした。
チョコレートみたいなドアが開くと、夕飯の支度でもしていたのかエプロンをつけた直子の母親が立っていた。
「あら、百々子ちゃん」
百々子は礼儀正しくこんにちはと挨拶し、直子ちゃんはいらっしゃいますかと仰々しく尋ねた。
「はいはい、ちょっと待ってね…遊ぶ約束してたの?」
いいえ、と答えたきり百々子は黙った。余計なことは言わないだけの頭はあるのだ。
階段を荒々しく降りてくる音がして、ひょこっと直子が顔を出した。おかっぱ頭に細いピンクのヘアバンドをつけていた。学校ではつけてなかったのに。
「あれ、百々子どったの?」
口に飴でも入ってるのか舌ったらずに質問をぶつけると同時に、母親は「じゃ、またね百々子ちゃん」と声をかけ姿を消した。
足音が遠ざかると、とりあえずヘアバンドを誉めてから重大な事実を打ち明ける為そっと扉を閉めて直子の耳元に囁いた。
「私、家出したのよ」
直子は「うっそお!」と叫んで、はっと耳を澄ませたが母親の来る気配がないと解るや百々子の腕をひっぱった。
「ちょっと、あんたそれ本気?」
本気も本気だ、と告白しそこに至った動機を重々しく話すと直子も納得したように頷いた。
「確かに百々子のお母さんは痛い目見た方がいいね、えこひいきは最低だもん。高梨先生だっていっつも男子ばっかし可愛がってさあ」
しかし、百々子は高梨先生の話をさせるつもりはなく、素早く口を挟んだ。
「だけど、行くとこがないのよ」
直子はぎくっとしたように目を見開いた。
「うちは駄目よ、お母さんが許すはずないじゃん」
そんなことは最初からわかっていたが、敢えて言われたことでこの呑気な友人に対して僅かに怒りが沸いた。
親友ならもっと親身になるべきなのに!
「解ってるわよ、そうじゃなくて…あんたどっか良い場所知らないかと思って」
ああ、と見るからにホッとしたように(更に百々子の友人に対しての信頼度は薄まった)ため息をついて、直子は細い小枝みたいな腕を組んだ。
「そうねえ…」
くじら公園も吟味した末に却下したことを伝えると、学校はどうかと二人は見当した。
「でも、用務員が見回りに来たりするんじゃない?」
ああでもない、こうでもないと頭を捻っていると直子があっと叫んだ。
「雷鳴館!」
「雷鳴館…ああ、あそこか」
八年前に事件があってから廃屋のままの館だ。言われるまで過りさえしなかった場所、雷鳴館。
「前になっちゃんと一緒に行ってみたことあんの、あそこまでさ」
「本当に?」
それは初耳だった。奈津美と直子は幼稚園が一緒だったからクラスが同じだったとき既に仲良しだったのだ。
あとから仲間に加わった百々子が知らないのも仕方なかった。
「うん、たいして面白くないから今まで言わなかったの。でもさ、あそこ鍵が閉まってなかったんだ」
百々子はハッと息を呑んだ。はじめて可能性が開けた気がした。
「それは…今でも?」
直子は正直に首を降った。
「わかんないな、でもあんなとこ誰も行かないし多分かかってないよ。玄関が開かなきゃ窓からだって入れるんだしさ」
確かにそうだ。あそこなら他の民家との距離もあるから窓ガラスを一枚くらい割っても気づかれまい。
しかし、直子は気がかりそうに足をもじもじさせ
「百々子ちゃん、やっぱりやめた方がいいんじゃない」
と言い出した。
「お母さんだって心配するし…お父さんだっているじゃんか」
百々子はギクリとして、父親のことを頭から失念していたことに動揺した。しかし、父親だって母親とどっこいそっこいなのだ。いつか「俺は息子と野球をやるのが夢だったんだよな」とビールを片手に母親と話していたことを思い出し、冷たい石のように意志がより強固になるのを皮肉な満足とともに感じた。
「ありがとうね、相談に乗ってくれて。解ってると思うけどこの事は絶対の秘密よ」
直子は不安そうに頷いた。なにかとんでもない利息の借用書にサインせざるを得なくなった人のように。
「命かけてよ?」
直子は不本意ながらまた頷いた。命をかけるのが不本意なのではない、それは親友なら当然の誓いだ…そうじゃなく、なにか胸を塞ぐような不安感に唐突に襲われたのだ。
その原因がなんなのかが解らない。解らないまま、この頑固な友人を送り出すことに本能が反対している。
「解ってるよ、でもやっぱり…」
「じゃあ行くから」
百々子はみなまで言わせず背を向けた。

直子は閉じられたドアをしばらく見つめ、七年間生きてきて初めて本気の葛藤に心乱されていた。
今すぐ、母親に打ち明けて百々子を連れ戻して欲しかった…なにか起こる前に。
何かって…なによ。もう一人の自分が問う。これは言ってみれば出来レースなのだ。
百々子は何も本気の家出をするわけじゃない。
少し、身勝手で非情な母親を懲らしめてやるだけだ。大人の家出みたいに本当に居なくなるわけじゃないのだ。
百々子は頭が良い子だし、無理なことはしないはずだ。
もしここで私が母親にチクったら、明日から百々子は私と口も聞いてくれなくなる…裏切り者になるのは嫌だ。
それにも関わらず、執拗に母親に言うべきだと騒ぎ立てる自分もいるのだ。
なぜなのか。
その原因に気付いたのは頭を洗っている時で、その時には全ては終わっていた。
いや、始まったと言うべきかもしれないが。


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