欲しがりなくちびる
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最近、地下鉄の階段の昇り降りが辛い。

カツカツと無機質な通路にヒールの音が響いている。大嶋朔(サク)は、階段を昇り切ると、レンガが敷き詰められた歩道をパンプスの底でしっかりと踏みしめ、内心ほっと一息吐く。すっかり夜の帳が下りた街を等間隔で設置された街灯の明かりが厳かに映し出す。マンションまでは約10分程の道程だ。

通い慣れた道も、前はもっと早く辿り着けた気がする。先月27歳になったばかりの彼女は、最近ふとそんな事を思うようになった。

時折縺れそうになる足を気合で持ち直すと、エントランスのオートロックを解除してエレベーターを待つ。

接客業でパンパンに腫れた脹脛も、家に帰れば婚約者の暢(トオル)が愛おしそうに擦ってくれる。区役所に勤務する公務員の彼は、比較的残業が少ない部署に配属されている為、不規則なシフト勤務の朔の代わりに家事のほとんどを担っていた。文句ひとつ言わないその姿は主婦の鏡のようで、一緒にいると少し後ろめたい気持ちになってしまうくらいに。

大学卒業後、新卒でアパレル会社に入社した朔は、20代から30代のキャリア女性をターゲットとしたレディースブランドで店長をしている。閉店後も、集計や品出し、おたたみ等の残務がある為、店を出る頃にはとっくに22時を回っているなどざらだ。現在、彼女が勤務しているのは路面店の為、戸締りも夜間金庫への出し入れもスタッフの仕事で、ファッションビルにテナントとして入っていた以前の配属先はそれがない分面倒が少なかった。

社会人になってできた恋人の多くは、彼女の勤務形態を理由に離れていった。恋人の仕事を理解できない男はこっちから願い下げだけれど、その度に傷付かなかったわけじゃない。

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