伸ばした腕のその先に

 わたしは、彼がわたしにあの言葉をいってくれるまで、陽くんは侑子さんが好きなんだ、
 そう勝手に思っていた。マクに軽く爪をたて、弱々しく吐息をもらしていただけだった。
 けれど、わたしと陽くんの関係は、あまりに唐突といえるような始まり方をしたんだ。


「今日は侑子さん、いませんよ」
 その時、わたしの目の前には陽くんがいた。

 相変わらずお客さんはまばらで、わたしはいつもお店が潰れないかとハラハラするのだが、
 そのときの動悸はいつもと違い、どこか甘酸っぱいものだった。

 視線を合わせられずにいるのに、陽くんは真っ直ぐにこちらを見つめている。
 それは、わたしの備えるマクなんて簡単に貫通するほど強い視線。
 その視線を浴びながら、このまま一生お客さんが来なくてもいいか、などとついつい思ってしまう。

「知ってるよ、侑子ちゃんから聞いてるから」
「なら、どうして来たんですか?」
「美月ちゃんに会いに来たんだよ」

 わたしはその言葉を心地よく耳に運んだ後で本当に切なくなる。そして、哀しくなる。
 大好きな人からプレゼントされた花が、時間と共に萎れていくのをただ見届けている、
 そんな気分を何倍にも濃くしたような、そんな感情にわたしは浸ってしまう。

 その言葉をどこまで信じていいのか。ただの言葉の綾ではないのか。
 わたしにはあなたに手が届く可能性があるのか。そうして、わたしはあなたに触れられるのか。

 様々な思案が全身を駆け巡り、すべてが過ぎ去った後に空白という隙間だけを与えていくのだ。
 その空白を埋めるかのように意味のない思考が、次から次へと生まれては消えていく。

 ぷかり、一つの考えが心の中に浮かび
 ぱつん、あっけない音を立てて爆ぜていく。
 ごうごう、それも束の間、大きな渦が全てを飲み込んでゼロに還す。

 そうやって思考という大海原に幾重にも想いを描くうち、無意識に伸ばしていた腕も止まってしまうのだ。
 指がマクに届くか届かないかの、ほんの手前で。
 目の前にいる陽くんは、腰に手をあて、わたしを覗き込んでいた。
 あっ、音にもならない音量で小さく声がもれた。

「美月ちゃん、俺と話してるとつまんない?」
「そ、そんなことないよ」
 すると、陽くんは残念そうな面持ちで、
 でも、そんな影は全くうかがえないような声音でわたしにしゃべりかける。
 陽くんの声が、わたしの心の表面をなぞっていく。
 わたしは彼の言葉のすべてを逃さないように捕まえる。
 わたしが全力で否定していると、陽くんは、にひひ、と子供が悪戯を企てたかのように笑う。
 野生的な歯が魅力的だった。

「じゃあ週末、一緒に海行こう」
「えっ、まだ泳ぐには冷たすぎるよ、海は」
 わたしが少し怪訝そうな顔をつくっても、陽くんは楽しげに笑い、なおも言葉を紡ぐ。
「いいの、海を見に行くだけなんだから」

 謎の自信に溢れた声は、深い闇という友人を携えたわたしまで響く。
 まるで、美月こっちだよ、とわたしを光の中へと誘うように、わたしの中へと流れこんでいく。
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