【長編】戦(イクサ)小早川秀秋篇
本能寺の変

その1

 天正十年(一五八二)六月二日
 満天の星が夜空を飾っていた。
 近江、長浜の立派な屋敷が軒を
連ねる界隈も夜の闇に包まれれ
ば、庶民の家とさほど変わりばえ
しないように見えた。そうした屋
敷の一室で、ひとりの女と五人の
子らが眠っていた。その末っ子で
生まれて間もない赤子が後に小早
川秀秋となる木下辰之助。そばで
寄り添って眠っている女は辰之助
の母である。
 やがて夜が明けようという頃、
障子の向こうの廊下を小走りに足
音が鳴り響いた。
 乳飲み子を育てているからか、
戦国の世の常か、母はすぐに目を
覚まして身を起こした。
 障子がバタンと開き、血相を変
えた女が数人、入ってきた。その
音に子らが目を覚ましたが、辰之
助はまだ眠ったままだった。
 女のひとりは羽柴秀吉の妻ね
ね、この時三十四歳。ほかは侍女
たちであった。
 辰之助らはねねの兄、木下家定
の家族ということで秀吉の屋敷の
近くに住んでいたのだ。
 ねねが短く事情を話した。
「お館様のいる本能寺から火の手
があがったようです。さ、早く支
度を」
 お館様とは織田信長のことだ。
 ねねは小声で言ったつもりだっ
たが、辰之助が目を覚まして泣き
はじめた。とっさにねねが辰之助
を抱きかかえ部屋を出た。その後
を追うように母と侍女は寝ぼけて
いるほかの子らをつれて部屋を出
た。
 一行が向かった先は長浜の総持
寺。何かが起きれば避難する場所
を決めているのも戦国の世の常な
のだろう。
 近江、長浜は琵琶湖の東北にあ
り、信長のいる京、本能寺は琵琶
湖の対岸、西南になる。真っ暗闇
で火事になれば少しは明るくな
り、小さな光の点として見える
が、それが何の光かは分かるはず
もない。それでも本能寺に火の手
があがったことは領民の騒ぎが伝
わってすぐに知ることができた。
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