【長編】戦(イクサ)小早川秀秋篇
大砲のありか
 慶長五年(一六〇〇年)九月十
四日
 曇り空からやがて雨が降り始め
た。
 この日が来るまで、各地で小規
模な戦いがあり、家康と三成の戦
術の探りあいが続いた。そのため
諸大名の部隊は再三移動させら
れ、なかなか対峙する場所が定ま
らなかった。
 圧倒的に優勢な状況にあった家
康でさえ諸大名の誰がどちらに味
方するのか計りかねていた。
 表向きでは味方すると言ってい
ても、本心は実際に戦闘が始まっ
てみないと誰にも分からない。そ
れを証拠づけるように大谷吉継が
寝返ったと分かり家康をさらに疑
い深くした。その結果、加藤清
正、伊達政宗、前田利長、黒田孝
高といった有能な諸大名を主戦場
から遠ざけてしまった。それでも
家康と三男、秀忠の部隊をあわせ
ただけで兵六万八千人になり、西
軍の総大将、宇喜多秀家に味方す
る諸大名の兵数を全て足しても六
万六千人にしかならず、徳川家だ
けで十分戦えた。それに家康には
大砲という最強の武器とイギリス
人のアダムスを軍事顧問に迎えた
ことで他の異国人が味方に加わ
り、多国籍軍の様相をていしてい
た。
 アダムスは日本の戦をつぶさに
見て、その弱点を本国、イギリス
に逐一報告するつもりでいた。そ
うとも知らない家康は異国人らに
日本の華々しい戦を見せつけよう
と考え、それにふさわしい戦場と
して関ヶ原を選び、大砲を移動さ
せていた。このため三成は家康の
動きがすぐに分かった。そして常
に大砲がどこにあるかを調べさせ
ていた。
 吉継によると漂着した船、リー
フデ号から家康が手に入れた大砲
は十九門でそのうち三門は家康の
三男、秀忠が信濃、上田城主、真
田昌幸との戦いのため運んでい
た。残りの十六門はすでに関ヶ原
に運ばれ桃配山のふもとの伊勢街
道のあたりに並べられ、木々で隠
されてはいたが、隠している様子
も見られていた。そこで三成はす
ぐに地形を調べ、松尾山にあった
古城を西軍の伊藤盛正らにより改
修していた。
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