【長編】戦(イクサ)小早川秀秋篇
消えた家康の憂い
 秀詮の死は病によるものと告げ
られた。しかし、その秀詮の遺体
のある寝屋にはすでに秀詮の姿は
なく、医者、曲直瀬玄朔の従者の
一人に成り変り、深夜に城内から
出て行った。
 寝屋には、すでに用意されてい
た棺桶が運ばれた。その中には秀
詮と背格好の似た病死の遺体が納
められていた。遺体は数日たった
ものらしく、十月の寒い時期で腐
敗が遅いとはいえ顔がむくんで誰
だか判別できない状態だった。
 玄朔の従者がそれを棺桶から出
して布団にくるめ、秀詮の身代わ
りとした。
 次の日、残っていた家臣らが見
守る中、秀詮の身代わりの遺体が
棺桶に納められた。そして葬儀は
しめやかに行われ、その死は道澄
法親王、近衛信尹(このえのぶた
だ)などの公家からも惜しまれ
た。
 遺体が埋葬される出石郷伊勢宮
の満願山成就寺までの移動中には
領民が大勢、沿道をうめ、狂った
領主を恨むどころか多くの者が嘆
き悲しんで手を合わせた。
 領民は秀詮の狂ったふりをして
いる振る舞いをうすうす感じてい
たかのようだった。
 秀詮の葬儀が済むと平岡は、秀
詮に側室や子らがいることを知ら
なかったので、跡継ぎがいない小
早川家が廃絶にならないように養
子を仕立てようとした。
 平岡は秀詮が毒殺ではなくあく
までも病死したように装い、淡々
と後始末をこなしていった。それ
が養子を探すという平岡の行動
だった。しかし、平岡の行動もむ
なしく秀詮の養子は認められず、
小早川家は廃絶となった。なお、
小早川隆景には弟の秀包(ひでか
ね)がいたので、そちらの小早川
家が残っている。
 すべてを整理した平岡は、秀詮
に最期まで忠義を貫いたというこ
とで家康に高く評価され、誰にも
疑われることなく家康に召抱えら
れた。これで家康の憂いがひとつ
消えた。
< 137 / 138 >

この作品をシェア

pagetop