【長編】戦(イクサ)小早川秀秋篇
藤原惺窩
 秀吉の後を追うように秀俊も名
護屋城に入った。秀俊に同行した
者の中に儒学者の藤原惺窩がい
た。
 惺窩は秀俊の居城、丹波亀山城
に寄宿して明や朝鮮から伝わる書
物をひもとき儒学や帝王学を説い
た。秀吉には京を出陣する前に会
い、「朝鮮には貴重な書物や儒学
の基礎を築いた姜コウ、朱子学者
の鄭希得など有能な人物、また活
字印刷の技術を身につけた職人な
どがいて、それらは今後の日本に
多大な貢献をする」と説き、戦を
やめるように嘆願した。それに対
して秀吉は「戦はやめることはで
きないが、それらの者を日本に運
んでくるので惺窩に名護屋城へ出
向き選別するように」と命じたの
だ。
 すでに名護屋の港からは朝鮮に
向けて軍船が次々と出港してい
た。

 朝鮮では日本の不穏な動きを知
りながらも戦にはまだならないだ
ろうと、警戒をしていなかった。
そのためあっけなく上陸を許し
た。
 朝鮮に上陸した一番隊の小西行
長、宗義智らは釜山城、東來城、
梁山城と次々に攻略した。この頃
の朝鮮では鉄砲が普及しておら
ず、日本軍の鉄砲を使用した攻撃
を防げなかったのだ。
 大陸が宋の時代に発明した火薬
は日本が鎌倉時代の蒙古襲来でそ
の威力を示し、その後、西洋に伝
わって鉄砲に使われるようになっ
た。その鉄砲を太祖、朱元璋が統
一した明では日本よりも早くポル
トガル人が伝え、その威力を知っ
ていたが、長期間の平和が続いた
ため鉄砲の必要性を感じていな
かった。また、明では町全体を城
壁で囲む城郭都市を形成していた
ため鉄砲よりも強力で城門や城壁
を破壊する大砲の開発のほうが進
んでいた。
 朝鮮でも李氏が統一して長期間
平和が続いたため鉄砲を使用した
戦闘の研究が進んでいなかった。
これに対して日本は戦国時代の
真っ只中で、信長によって鉄砲の
威力が認められた。それを機に急
速に普及し戦闘方法も激変してい
たのだ。こうしたことによって皮
肉にも鎌倉時代の蒙古襲来とは逆
の立場で争われることになった。
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