…だけど、どうしても

水中で、彼女は大きな泡を吐き出しながら、ほとんど無意識に水面に顔を出そうともがきだした。
俺は掴んでいた腕をきつく引いて、それを止めた。
彼女は驚いて目を見開く。俺と彼女の間で泡が上りきって、その瞳に初めて俺が映った。
俺は安心させるように、唇の前に人差し指を立てて見せて軽く微笑んだ。

すると、掴んだままの腕から、力が抜けたのがわかった。苦しげに顔を歪めながらも、彼女は何が起きたのかなんとか理解し、ひとまず水中に留まることにしたらしかった。
それでいい、と頷いてから、俺は首から上だけをそっと水面から出して、あたりの様子を伺った。

入ってきた扉の前で、白髪をきちんと整えた老紳士が、この屋上のプールを一通り見回して、人っ子一人居ないことを確認したところだった。肩を落とし、俺には目もくれず、背を向けて去っていく。

俺はその背中が見えなくなるのを待ってから、両腕で彼女の身体を引き上げた。

「…はっ、はあっ…」

途端に、彼女は酸素を求めて激しくむせ返った。咳と呼吸が同時に出来ずに苦しそうだった。

「悪い…」

俺は呟くように言って彼女の背をさする。
着ている淡いオレンジ色のシフォンのワンピースが身体に貼り付いて、呼吸に合わせて大きく波打っている。

「無茶だったな。」

彼女は言葉を返す余裕なんか無い。当たり前だ。
さすがに俺も申し訳なくなって、呼吸が落ち着くのを待った。
上下する、濡れた白い胸元が悩ましい。今すぐ触れて、揉みしだきたくなる衝動に歯を食いしばって耐えた。
ここまででも突拍子もないことをしているのに、そんなことをしたらただの変質者だ。

けれど、髪の毛が絡みついた首筋、水を溜めた鎖骨、髪の先からしたたる水滴、陽の光を浴びきらめく肌…
何もかもが容赦なく欲情を煽ってくる。

「くそっ…」

思わず声が漏れた。
俺は彼女に吸いついた自分の視線を無理やり引き剥がして、宙を仰ぐ。
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