ヒーローに恋をして
「トウコ」

 呼ばれて桃子(とうこ)は振り返った。片腕で脚立を抱え、もう片方の手には工具セットを持っている。事務所のシーリングライトの取り換え作業中である。

 奥にある応接コーナーのソファから立ち上がった宇野は、半袖のTシャツに履き古したジーンズ、かかとがつぶれたスニーカーをサンダルのように履いている桃子を見て眉をひそめ、そのまま黙って手招きをした。

「ちょっとおいで」

 脚立を隅に置き、工具セットはなんとなく手に持ったまま宇野のもとに行く。 
 応接コーナーとパーテーションで仕切っている事務スペースでは、電話がひっきりなしに鳴っていた。普段事務所にいるのはアルバイトと事務の女性くらいだから、知り合いの人たちはみんな直接携帯にかける。だから外線が鳴ることは案外珍しかったのに。
 ここ数日で、それが変わってしまった。

「ソーリー、えっと、ヒーイズ」

 電話を受けた事務員がたどたどしい英語を口にしている。彼女の声と重なるように、レコード会社から届いたばかりのアイドルの新曲のサンプル盤が、BGMというにはやや主張し過ぎたボリュームで室内を流れていた。事務員の隣ではアルバイトの女の子が、大きなイヤホンをしながらそのアイドルの公式サイトをアップデートしている。デスクの端には色稿から上がってきたポスターが丸まって置かれていて、色味の修正依頼が書かれた付箋がピラピラと飛び出ていた。

 芸能事務所スター・フィールド。ここが桃子の仕事場だ。

 宇野は桃子の片手に抱かれた工具セットをチラと一瞥すると、座りなさい、と目でソファに促した。普段目にする割に座ることのない来客用のソファに腰をおろす。

「なんですか」
 向かいに座る宇野を見る。縁の柄が千鳥格子になったオシャレなタイプのメガネは、知り合いのスタイリストにもらったという。短くカットしてワックスでたたせた髪型とよく合っている。今年で四十歳には見えない。

 いつからか、座る時に両足をそれぞれ外側に向けて座るのが宇野の癖になっていた。自分のシルエットを実際よりも少し大きく見せるようなポーズは、宇野に必要なものだったんだろう。宇野はスター・フィールドの創設者であり、現職の社長だ。 

 宇野は片手でジャケットの胸ポケットを探ると、たばこを取りだした。桃子はローテーブルの隅に置かれたガラスの灰皿を宇野のもとに引き寄せる。

「何年になるっけ」

 語彙の少ない質問に答えようと、頭の中で計算する。
「十二年、ですね。この四月でちょうど」

 なが。

 自分の答えに内心舌を巻いた。年数だけで言えば、まぁまぁなポジションの芸人並だ。そうか、と宇野は小声で返して、
「俺考えたんだけどさ」
 言いながらたばこに火をつける。ぷつりとオレンジ色の火が灯って、煙が吐き出された。

 宇野がこうやって桃子の前でたばこを吸うところを、もう何年も見てきた。家族のように長い時間をともに過ごした中で、彼のたばこの銘柄は三度変わっている。

「ほかのこと、やってみるか」

 たばこを指先で挟みながら、視線はトウコの隣に置かれた工具セットにいく。
「そうですね」
 驚きも悲しみもなかった。もうずいぶん前から予想していたことだった。

 最後に表に立った仕事は三ヶ月前。地方番組のレポーターだった。なんの間違いか、番組のディレクターがロケ終わりに尻をさわってきた。
 おもわず振り返りざま蹴飛ばした桃子の踵は自分より二十センチ低いディレクターの股間を直撃した。丸まって飛び上がるディレクターが、桃子を睨んで言った言葉は今でも覚えている。

 子役上がりの一発屋のくせに、いい気になるなよ――。

「契約って、何月までだっけ」
「あー待て待て、いや、契約はちょっと置いておいて」
 その言葉に首を傾げる。ほかのこと、というのが何を指してるかわからないけど、契約を切る話に違いないと思ったのに。

「あのな」
「社長」
 宇野がなにか言いかけたところで、外線を取った事務員の女性が声をかけた。宇野が振り返ると、困ったように
「あの、また電話来てるんですけど。コウはいつ来るんだって」
 宇野はチッと舌打ちをして、
「まだだ。もうすぐ会見開くから、待ってろって伝えてくれ」
 言い放つと、ふーっと肩で息をして首を振った。しばらくすると、席に戻った事務員の声が聞こえてくる。

「ソーリー、ノーノー」
 たどたどしい英語が耳に流れてくる。
「ヒーイズント、ステイヒア」

「宇野さん、忙しいんじゃない? 今日でしょ」
 アレ、と目で電話中の事務員を指す。宇野はたばこを咥えると黙って頷いた。

 アメリカだかイギリスだかで人気のモデル、コウ。去年有名なスタイリストのショーモデルに出たことがきっかけで、香水とかバックとか、派閥が厳しくてアジア人は採用されないことで有名なブランドにもモデルとして抜擢されるようになる。コウはまだ二十三歳の日本人ということで、ワイドショーで取り上げられたこともあるらしいけど、桃子はよく知らない。

 そのコウがこの四月から、活動の拠点を日本に移すという。向こうの事務所をリタイアして、日本での所属先を探すと発表したのが今年の一月か二月。そのことをスタッフから聞いたときは、ふーんそうなんだ、としか思ってなかった。ぼんやりと、モデル専門の芸能事務所か、そうでなければ有名女優や俳優を数多抱えてる大手のあのへんかな、と頭の隅で考えて、かといって自分の予想が当たるかどうかの興味もなかった。

 まさか、創立してようやく九年目の弱小事務所、スター・フィールドに移籍するなんて、これっぽっちも思ってなかったのだ。

 そういうわけで、発表されてから今日までの数週間、特にこの数日は国外からの問い合わせが後を絶たない。
 だけど、おそらくそれも今日で一区切り着くはずだ。
 なにせ、その移籍日が今日なのだから。

 宇野は腕時計に目を落とすと、
「まだ大丈夫だ。会見の会場、赤坂だから。あと一時間くらいで移動すればいい」
 桃子の服装をチラッと見て、
「おまえ、服ほかにないか? できればスーツとか」
「ないですけど」
 どうしてです、という意味をこめて宇野を見返す。うん、と宇野はひとつ頷いて、口を開いた。

「おまえに、コウのマネ―ジャーやってほしいんだ」
「…………は?」
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