ヒーローに恋をして
アパートの夜
 コウの言葉に目を見張る青葉よりももっと、桃子は驚いていた。立ち上がった拍子に肘がワイングラスにあたる。
 カシャン。
 硬質な音をたてて、グラスが倒れた。あっという間にワインがテーブルにこぼれ、金縛りが解けたように声が出る。
「すみません」
 謝りながら、赤ワインをおしぼりで拭う。
「宇野さん服大丈夫ですか」
「俺は平気」
 青葉が近くの店員を手招きして、拭くもの持ってきて、と指示する。オーナーの顔に戻った青葉は、二人とも服汚れてない? そのままでいいよ、と桃子たちを気遣う。

 ふいに横から強い力で腕を引かれた。驚いて振り返ると、コウが桃子の腕を掴んでいた。間近に迫る黒い目は、間接照明だけが照らす赤ワインと同じ、とろりと深い闇色をしていた。
「俺もう帰るから」
 だしぬけにコウは言う。 
「送ってってよ、ももちゃん」
 その言葉に目を見開く。見ての通り、宇野もいるし食事の前だ。こっちの状況を無視して、現場から自宅まで送迎する時のように平然とコウは指示した。怒るよりも呆気にとられていると、
「コウ君、まだ話は終わってないよ」
 後ろからユリアが口を挟んだ。いつもの舌ったらずな喋り方とはちがう少し低い声。こっちが彼女の素なんだかろうか。まだ混乱した頭でとりとめのないことを思う。

 コウは後ろを振り向いてユリアを見た。口元にはきれいな笑みを浮かべている。
「うん、でも俺のなかでは終わってるから。社長さんにもそう伝えておいて」
 社長さん?

 眉をひそめたのは桃子だけじゃなかった。宇野が探るような目をコウに向ける。コウは宇野に視線を合わせることなく、桃子を掴む手に力を込めた。
「ほら、いいから帰るよ」
 顔は笑ってるのに、なんだかこわい。腕を捕まれたまま助けを求めるように宇野を振り返ると、ふぅと煙を吐いた宇野がたばこを灰皿にこすりつけた。
「それじゃ俺は帰るわ。トウコ、送ってやれ」
「そんな!」
 ライオンの檻に放りこまれた羊の感覚。まったく違うはずなのに、おもわずそんな画が浮かんだ。

 桃子にかまわず、宇野は立ち上がるとユリアを見て言った。
「社長さんに言っといてください。こいつの意志は固いんでって」
 そう言って、唇の端をふっと上げる。ユリアは唇をかみしめると、こちらを振り向いた。大きなサングラスの上の眉が、不愉快そうにひそめられてる。
 その表情の意味がわからずにいると、ユリアは顔を背け出口へと向かっていった。その少し後ろからゆっくりと、宇野が歩いて行く。

「トウコちゃん、今マネージャーやってるの?」
 呆然と後ろ姿を見送った桃子に、青葉が声をかけた。桃子は苦笑して頷く。
「なんか、色々あってそういうことに」
 青葉は神妙な顔で頷いた。さっき桃子が青葉に抱いた同族意識のようなものを、彼も感じてるのかもしれない。

 すかさず、肩を引き寄せられた。青葉にではなく、コウに。
「言ったでしょ? ももちゃんは俺のなんです。近寄らないでくれますか」
「俺のって、マネは物じゃないんだぞ。勘違いするな」
 青葉が嫌そうに言う。その言葉にああそうかと思う。

 俺のものって、そういう意味か。
 
 納得のいく理由にたどり着いて、ふっと息を吐く。そうしたら、心臓がばたばたと騒いでいることに気づいた。緊張してたんだ、と気づく。
 
 このひとは俺のものなんだよ

 思い出して今さら頬が熱くなって、隠すように片手の甲を頬に擦りつける。

 ここが暗くてよかった。勘違いして慌てていた自分を、見られなくてすむ。

 桃子の動揺に気づくことなく、コウは青葉の反論を傲慢な笑みで切り捨てた。

「ももちゃんは、俺のだよ」
 
 そう言うと、桃子の手をとって歩きだす。桃子は慌てて青葉を振り返って、
「すみません、ワインせっかくもらったのに」
 さっきから気になっていたことを言った。青葉は苦笑して首を横に振ると、
「また今度飲みに来て。他の種類も用意して待ってるよ」
 オーナーらしい営業トークに笑みが浮かんだ。青葉は逞しく第二のステージでがんばっている。

 そんな二人のやり取りを遮るように、コウの歩く速度がさらに早まった。桃子は転ばないように、急いで足を動かした。
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