御曹司さまの言いなりなんてっ!

 これはどう考えても、逃げるが勝ちだと思う。

 まだ間に合うはずだ。この危険地帯から私は引き返すべきなんだ。

 深みに嵌って身動きとれなくなる前に、今すぐ。

 すぐ……。


『ありがとう。……とても、嬉しかったんだ』


 目を伏せた彼の、羞恥を帯びた柔らかな声。

 夜の帳が下りた美しい庭を眺めながら、ふたりで味わったシードルの味。

 私を庇ってくれた彼の、男らしくて大きな背中。

 それらを思い浮かべながら私は、水に濡れた両手で自分の顔をビシャリと覆った。

 
 また、味わうことになるんだろうか。

 自分の感情なのに自分で制御できない、誰かの思惑に振り回される日々を。

 そうなっても構わないと思えるほどの、あの陶酔するような幸福感に身を委ねることになる?

 探るような目で罠を仕掛けて、私の反応を伺うズルい上司を相手に。

 あの人を相手に……。


 私は手を下ろし、再び鏡の中の自分を見た。

 泣いたように濡れた頬は紅潮し、切ない表情は恋に浮かれる高校生のよう。

 引き返すべきなのに。今すぐ、ここから引き返すべきなのに。

 蛇口から流れ続ける水を止めることも忘れて私は、そればかりを考えていた。




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