うちの嫁
自叙伝をば


あの、わたくし染野美津子と申します。

一昨年、還暦を迎え、その時に息子にしゃぶしゃぶをご馳走してもらいましたの。それはもうたいそうな霜降りのお肉で、この時ばかりはお腹いっぱい頂いてすぐ横になりたかったのですが、息子が「食べてすぐ横になると牛になるよ」って、わたしの声色を真似するものですから、じゃ「母さんが牛になってお肉をご馳走してあげる」と言うと、ループだか難しい横文字でなんだか曖昧な感じになって。

あゝ、まさかこの年まで生きているなんて。

この年まで大きな波風一つ起きずに___あ、そりゃ、息子の信明を予定日より三ヶ月も早く出産して、未熟児の信明をなかなか抱かせてもらえず、やっとこの手で抱いた時は、嬉しいというより、変な間が開いたから他人の子みたいに感じたとか、少し目を離した隙にベランダから落ちてしまって、あの時のなんていうか、景色の色が無くなるというんですか、一瞬にして白か黒かしかなくなる、善か悪かしかなくなるような、でも白が善とは限らないんです。だって、黒は何色にも染まりませんでしょ?

ええと、わたくしのことですわね。

ですから、わたしは、私でありながら私でないというか。染野美津子だけれど、それはただの棺桶の名前であって、私じゃない。だからこうして今日(こんにち)まで細やかに暮らしてまいりました。

ええ、主人のお陰です。

あゝ、そうだ。

お茶請けを買いに行かないと。

ちょっと失礼しますね。

もし万が一、息子が帰ってきましたら、野球の話でもしてやって下さいな。息子は大の阪神ファンで。六甲おろしですか?あれを歌うと泣き止みますの。

それからもし、もし万に一つ、奥野早苗さんがいらしたら、うまく追い返して下さいな。





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