優しい歌 ※.。第二楽章 不定期亀更新


純粋に自分の想いをストレートにぶつけることのできる瞳矢。


でも今の僕にはその想いに答えられない。
あの頃の僕と今の僕は違うんだ。

何もかも全て……全て変わってしまった。


僕が何も答えない間に、
瞳矢は愛器の椅子に腰掛けて静かに奏で始める。


15番 変二長調 Sosutenuto。
俗に『雨だれ』と名付けられたメロディー。


ショパンの曲は『思想感情を表現する事が大切なのよ』と
僕に教えた恩師でもある母さんの言葉。


生前、ショパンが最も愛したと言われているプレイエルの音色が
紡ぎだす音色に魅了されていく。


歌うような音色。

タッチの軽快さ。


けれども軽すぎない透明感。


瞳矢の指から紡ぎだされる
至上のメロディーが僕の中に浸透していく。

雨だれはショパンの残した旋律の中でも指折り。

甘い旋律でありながら、ただ甘いだけでは終わらない。

その甘さの中には哀しさが潜んでいて、
その哀しさは今にも崩れてしまいそうなほど脆い。

中間部分では、嬰ハ短調に転調し一変して死の足音が極めて
不気味に静かに響く。


不安は爆発して『フォルテッシモ』。
それも一度だけではなく二度も……。

爆発後の右手の旋律は胸がはりさけんばかりの苦しさ。

最後に弱々しい希望の光が降る。
全てが重なるわけではない。


けれど一部は僕の今とシンクロして行く。


瞳矢の奏でる音は僕を捕らえてやまない。

演奏が終わった後、
僕が思わず拍手をしてしまうほどに。

呆然とピアノの前に座り続ける瞳矢の瞳からは
一筋の雫が零れ落ちる。


「瞳矢」


瞳矢は慌てて涙を袖で拭い去ると僕に、
にっこりと微笑む。



「素敵だった。有難う」

「……ううん……。
 僕こそ、何か暴走しちゃったね」

「凄く素敵だった。

 十五番を自分の物に出来るって言うのは
 ショパンの全ての音楽を理解出来たのと同じ意味になるって、
 昔……母さんが言ってた。

 ふと……その言葉を思い出したよ」

「僕なんてまだまだだよ。
 でも必ず制覇したいんだ」

「瞳矢なら出来るよ」

「真人もね……」

「……僕も……続けてみたいな…………」
 

瞳矢の音色は僕に微かな
希望の光を届けてくれた。

 
「真人、真人のピアノ聴かせてよ」

僕は無意識に頷いていた。

鍵盤の上に優しく手を置く。
そしてゆっくりと指を滑らせ始める。

今の僕にしか演奏できない曲。

懐かしいピアノ・ソナタの中の一曲。
第2番 変ロ短調 作品35。


昔とは違った音色が今は紡ぎだせると思うから。

不安と絶望に支配された圧倒的な力強さ、
それがこの曲の中にはある。

徹底的に重い楽想に支配されたソナタ。
僕が感じる傑作の中の一つ。

第1楽章はショパンの音楽の中でも
最も劇的……激しい情熱が嵐のように展開していく。

その第1主題はどこか焦燥感に駆られたような音楽。
右手のリズムはこの楽章全体を支配する。

第2主題……第1主題とは対照的な『束の間の夢』。
第2楽章は不吉なスケルツォ。

連打音はクレッシェンドされていて、得たいの知れない恐怖が襲いかかって来る。

重音の半音進行がその恐怖を加速させる。
中間部は美しいけれどもやや冗長。

第3楽章は有名な送葬行進曲。

ひたすら絶望のみの世界……
その中の中間部は天上の音楽の美しさは格別……。


第4楽章は議論の的になる有名な音楽。
ソナタとは思えない構成の中、全曲に確固たる意志の強さと絶望が織り込まれる調べ。

その曲は今の僕自身。

束の間の夢は……今のこの時間。
そう思える今。
だから僕はこの曲を奏でているのかも知れない。

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