くれむつの恋
3鐘
 お時が濱茉屋についたのは、すっかり暗闇に包まれた頃だった。
 お時は濱茉屋の前で右往左往していた。
 すでに旅籠ののれんは下ろされ、扉は閉ざされていた。

 さすがに鍵まではまだかけられていない様だが、
 正面玄関から入っていくわけにもいかず、どうしようかと思案していた。

 勝手口から入ろうにも、すでに膳を終えたであろう客の皿が
 山積みになっている調理場には、人一人いないだろうから、
 鍵は女将ないし、重之助がきちんとかけてしまっているに違いない。

 なぜならば、山積みにされた皿と、ついでに賄いの皿を洗うのはお時の仕事だからだ。
 子供が一人で仕事をし、万が一にも鍵をかけ忘れてしまっては大変と、
 女将がそうするようにと決めたのだった。

 色々と思案してみたが、お時は諦めて正面玄関から入ることにした。
 ガラリと音を立てて扉が開かれると、中はすでに暗かった。

 番頭の与平の姿はすでになく、行灯だけがゆらりと揺れていた。
 ここに置かれている行灯は菜種油のため、魚臭さはなく、
 温かみのある光だけが伝えられていた。

 こんな時間に帳場にいたのは初めてだった。
 薄暗く、どことなく不気味だが、紅く塗られた帳場格子が光に揺れて、
 なんだか美しいような気もした。
 お時がぼうっと行灯の光を見ていると、廊下からお時を呼ぶ声がした。

「お時ちゃん?」

 お時が振向くと、そこにいたのは与平だった。
 与平は不思議そうにお時を見て、元々細い目をさらに細めて笑んだ。

「どうしたの?」

 お時はそれには答えず、草履を脱いで畳に上がった。
 草履を手に持ち、与平に軽く会釈をすると、与平のそばを過ぎる。

 すると、突然腕を掴まれた。
 驚いて与平を振り返ると、与平は先ほどと変わらぬ笑顔でお時を見た。

「返事くらいしましょうよ」

 穏やかな口調と表情とは裏腹に、笑まれた目は鋭く光った。
 お時はぞっとしたものを覚え、反射的に

「すんません」

 と、謝った。
 小さな声で出されたそれに満足したのか、与平はお時の腕を放した。
 お時はそのまま逃げるように廊下を進む。
 その姿を与平は感慨深く見つめていた。



< 4 / 11 >

この作品をシェア

pagetop