好きだと言ってほしいから
 葵ちゃんが私の目を見つめてくる。だけど、私は知らない。分からない。だって、逢坂さんが異動したがっているなんて話、聞いたこともないし、彼とそんな話になったこともない。

 私は首を振った。

「わ、分からない……。逢坂さんは何も言ってなかったし……」

 席を立とうとして、テーブルの上に置いていたファイルとボールペンが派手な音を立てて散らばった。私は慌ててしゃがむとそれらを拾い集める。葵ちゃんも手伝ってくれた。

「じゃあ、きっと他の用事で来てたのね。異動じゃなくて人材教育の方かもしれない。びっくりしちゃったわ。どんな話だったのか、今度聞いておいてよ」

「うん、そうだね」

 拾ったボールペンを握り締めて笑う。葵ちゃんはファイルを机の上に置くと「じゃあ戻るね」と言って部屋を出て行った。

 逢坂さんが人事部に来ていた。異動のことなんて話したことがないからきっと葵ちゃんが言うように、研修の話なんだろう。逢坂さんの部署はウチのエリート部署の一つだから、よく大規模な研修が組まれているのは知っている。今回もそんな話に違いない。

 だけどどうしてだろう。きっとそうだと思うのに、心の中の私が違うと言っている。逢坂さんが私の知らないところで、遠くへ行ってしまう……そんな予感が拭えない。

* * *

 土曜日になり、私は逢坂さんと一緒に彼が通うジムへとやって来た。大きなガラス越しに見る限り、田舎にしてはめずらしく設備が整ったジムに見えた。もっとも、ジムへ来るのは初めてだから他と比較したわけではないけれど。テレビで見たことあるようなマシンがたくさん、整然と並んでいる。逢坂さんは週二回、このジムへ通っているけれど、私はいつも夕方のこの時間は、彼のマンションで夕食の準備をしていることが多かった。
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