さくらのこえ

 紅葉が宮中へ向かった後、二人は初夏の涼しい風を受けながら穏やかな時間を過ごしていた。

「なあ、春姫」

 ふと和春が口を開く。春姫の隣に座る和春は何か言葉を探すように宙を見ている。何か言い出しにくいことなのだろうかとじっと見上げた春姫の胸はざわついた。
 意を決したのか、さらに春姫を傍へ抱き寄せ真っ直ぐにその想いをぶつける。

「紅葉が帰って来たら、俺の邸へ来ないか。そこで二人で楽しく暮らしていこう」

 その瞳に映る真剣さに、春姫は驚いたように動きが固まった。そして、つまりは結婚の申込みであることを、次第に理解し始める。
 自然と赤くなった春姫を見て、和春もまた、少し恥ずかしそうに目をそらした。

「何も今日明日のことじゃないんだ。ゆっくりでいいから、考えてみてはくれないか」

 こんなにも自分の心を真っ直ぐにあらわしてくれる和春を、春姫は受け入れたかった。けれども、春姫の心の内には自分の声が出せないことや後ろ盾の無さが、いつか綻びとなって離れていってしまうのではないかとすぐに頷くことは出来なかった。
 どれだけ想い合っていたとしても、時が経てばそうした背景が間を分かつことを春姫は既に身を持って知っていたからこそ、どんな表情をしたら良いのかさえ分からないまま沈黙が訪れる。
 今、この瞬間に自分の想いを声に出せたらどれだけ嬉しいことだろう。そう思いながらも実現が出来ない自分が心底嫌になってしまう。
 春姫がここで今出来ることは、ただ彼の背に手を回すことだけだった。



「紅葉、久しぶりだね」
「はい。春宮様もお変わりなく。こうして長い間療養の期間をいただけたことは感謝しても足りないくらいです」
「いいんだよ。私としては唯一の思い出を共有できる人だからね、何かあればすぐに申すと良い」
「ありがとうございます」

 顔を伏せながら、紅葉は春宮の様子を伺う。ここまで信頼してもらっているのに、左大臣邸に戻りたいとなかなか言い出すことが出来ずにいた。

「今日のところは疲れているだろうから下がって休むと良い。以前話していたことも聞きたいところだけれどね」
「……お気遣い、ありがとうございます」

 結局、言い出すことが出来ないまま紅葉は部屋に戻る。どうしたものかと一人頭を悩ませていた。
 翌日、昼も過ぎた頃、紅葉は春宮と対面していた。人払いもしているのか、聞こえてくるのは葉が揺れる音のみ。

「紅子様とは相変わらず距離があるようですね」

 昨夜他の女房たちから居なかった間のことをこと細かく教えてもらっていた紅葉は、本題とは大いにずれるであろう問いかけをした。春宮の表情はわずかに曇る。

「最近は慣れてきたのか楽しそうに過ごしているようだよ」

 女房たちから聞いたのであろう話をつまらなそうに話す春宮がやはりどこか可哀想に思われてしまう。きっと藤子であれば目の前の人物の暮らしは変わっていただろう。それくらい春宮にとって大きな存在であったのだと今更ながらに紅葉は思う。
 しかし、藤子はもうその思い出に背を向けて歩き出したのだ。もう会わせるわけにはいかないと改めて決意を固める。

「恐れながら春宮様」
「何だい」
「私、この春宮殿を辞して、里に下がろうと考えております」
「里に?」
「はい。やはり私にはここは華やかすぎたようです。いつまた体調を崩すか知れません。私は、私の愛する主人を想って生きていきたいと思います」
「では、姫は……」

 春宮の顔色がさっと青ざめる。無理もないだろう。紅葉の口ぶりは行方は掴めなかったと言っているようなものだ。わずかな希望が絶たれてしまったのだから。

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