優しい胸に抱かれて
 理解した途端、悔しさが押し寄せてきて何か言い返したくて仕方がないのに、何一つ考えられない程。それくらい私の中で何かが壊れた気がした。

 今はまだ仕事中。午後に向けて昼休みに一息ついている時間ではない。仕事だ、しかも大事な打ち合わせ。目の前にいる人は会社の上司じゃない、大切なクライアントだ。

 そう、自分に言い聞かせなければ、このまま会社に戻ることも、立ち上がることすら出来ない。

「同じ課の方がよかったか? それとも、あと1年だと油断でもしていたか。出向期間は通常3年だからな、2年で戻ってくるとは思っていなかったか? ついでにもう一つ、日下も横浜から戻ってくる。今期は随分と愉しい一年になりそうだな」

 日下さんも戻ってくる。それを聞いて耳が反応しそうになる。反応したら終わりだと言い聞かせ堪えていると、吐いたタバコの煙の隙間から部長はこちらを一瞥し、私が何も反応しないと見切り、間髪を容れずに話を続ける。


「仕事とは関係ないことだから、これは上司命令ではない。聞き流そうがどうしようがお前の自由だ。ただ、これだけは言っておく。あと3週間ある、就任は4月2日だ。あいつのことを忘れてないのなら、それまでその精神力の弱さを何とかしておけ」

 私が言い返せないでいるのは、精神面が弱いからだと判断したらしい。

 灰皿にタバコを押し消し、伝票を手に立ち上がった部長の表情からは、それまでの嫌味な笑みは完全に消えていた。

「少しは成長したようだからここは俺の奢りだ、その代わり高くつくぞ。この繁忙期にミスだけはするな、これは上司命令だ。この場で泣かなかっただけ褒めてやる」

 ゆっくりと足を歩めた部長は私の横を通り過ぎたところで、最後の一言を捨てて行った。

「あとは喚こうが、足掻こうが、そのまま潰れたければ好きにしろ」

 この最高の捨て台詞は前川部長にしか似合わない。

 目の前から部長がいなくなって、周囲のざわつきに耳触りを覚える。冷めたコーヒーを口の中へと流し込んでも、乾き切った喉は潤うことなく、震える指先をぎゅっと手の平へと押し付ける。

 作った拳に悔しさが滲む。
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