海は悲しきものがたりいふ
いつの頃からか、彩瀬は私を「あーちゃん」と呼ばなくなった。

……寝言で「あー」って、「ちゃん」をはずして呼ばれるようになって、しばらくしてから、かな。
本当は「あー」って呼ばれるの、アホな子みたいでけっこう恥ずかしいんだけど、彩瀬なので、許す。

「碁会所から来てん。お待たせ。じゃ、帰ろっか。」
自宅までは5分もかからない。
それでも私たちは、毎日こうして2人で歩いた。

排気ガスの混じった初夏の風が、彩瀬の体から安っぽい薔薇風の香りを立てた。
「……彩瀬のクラス、5時間目、自習やった?」

彩瀬は、明らかに動揺した。
赤くなってしどろもどろに何か言わんとしてたけど、私の目の冷たさに悲しい顔をしてため息をついた。
「ごめん。何でわかったの?」

「わからいでか!やらしい顔しとーから、バレバレ。もう!好きでもない女と何でやっちゃうかなあ!?」

……本当は、碁会所で会った彼と同じクラスかも、という不確かな疑問でしかなかったけれど。
もし彼が自習か何かで、学校を抜けて来たのだとして、彩瀬も彼と同じクラスだったなら?

彼は碁会所に来たけど、彩瀬は……たぶん……また……。
そんな仮定に仮定を重ねた当てずっぽうが、たまたま的中していた、それだけのことだ。

彩瀬は、しゅんとしてうつむいた。
少し涙ぐんでいる。
子犬を虐めてる気分になってくる。
……どうせ、女の子の嘘泣きにほだされたとか、そんなとこだろうけど。

私は彩瀬の手を振りほどいて、スタスタと早足で歩き出す。
「あー。危ないよ。」
彩瀬が慌てて駆け寄ってきて、私の手を掴む。
「や!他の女に触っとった手ぇで、私に触らんとって!」

そう言って再び逃れようとしたけれど、彩瀬の手はしっかり私をホールドしていた。
「ごめん。あーを悲しませたくないのに。どうしていつも僕はこうなんだろう。」

……学習能力が決定的に欠落してるんでしょ。
私は本音を飲み込んで、彩瀬の手をポンポンと軽く叩く。

「彩瀬は、綺麗すぎて、優しすぎるからね。とりあえず、私に触らんとって!八方美人、嫌い!」
「あー!」

彩瀬の明るい色の瞳から涙がこぼれ落ちる。
少しの罪悪感と苛立ちを持て余して、私は彩瀬の手を自分の腕からむしり取り、走り出した。

「あー!危ないから!待って!」
彩瀬が慌てて追いかけてくる。

私は、わざとスピードを緩めたり速めたり、彩瀬があきらめずにずっと追いかけてくれるように調節して走る。

……彩瀬が私を追う……ただそれだけのことがうれしくて、私はよくこんな風に彩瀬を翻弄した。
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