貴方がくれたもの

道子は黒いドアから出ると、足早に演奏前まで座っていた長椅子に向かった。
今更に手足が震えてくる。

大丈夫、私は出来るだけのことはやったはず。

道子はそう自分を鼓舞して、それでも不安で崩折れそうで、早くCDが聞きたかった。
良くも悪くも幼い時に手に入れたCDは、彼女の安定剤とも言えるものだった。

先客がいた。いや、この場合道子が先に場所をとっていたのだから、礼儀知らずというものだろうか。

道子は腹立たしく思いながら、その男を睨みつけた。しかも男は道子のCDプレイヤーを勝手に使っている。

「お前、こんなの聴くんだ」

道子の姿を確認して放たれたのはそんな一言。
それには、賞賛ではなく明らかな侮蔑の色が含まれていて、道子はヒステリックに怒鳴り散らしてしまいたくなった。

「返して」

道子はそれだけを言って、抱えていた楽器を静かに横たえると、男の手からプレイヤーを乱暴に取り上げた。

「相変わらず怖いな、道子は。」

飄々とそんなことを言ってのける男を道子は睨む。

「あんたこそ、相変わらずデリカシーがないのね」

男は道子の視線に、おどけるように肩をすくめた。
道子は男から離れて座り、大音量でプレイヤーを初めから再生した。
流れてくるのは耳慣れた声。
一番目のジャズ調の曲は、いつもこのタイミング、極限の不安の中で聴いているものだった。
時折短調になったり、リズムが揺れたりするジャズサウンドは、きっかり拍をとっていた道子の体内時計を包み、ぼやかす。
人間に戻る時だ、と道子は感じていた。

その曲を聞き終わると、道子は再生を止めた。
礼儀知らずの輩はまだ立ち去らず、この場にいる。

「なんの用なの」

道子は仕方なく尋ねた。
この男、まるでデリカシーがないが、知らない仲というわけではなくて、むしろあらゆることを知り尽くしている関係だった。

だからこそ道子にはデリカシーなく振舞うのかもしれなかったが。

「このコンクールの結果に関わらず、留学することにした」

男、南柳之介は真面目な顔をして言った。
道子は勘付いた。彼の次に言うことはこうだ。

「道子も一緒に行かないか。」

柳之介が、考えていたことと全く同じことを言ったので道子は思わず噴き出してしまった。

急に笑い出した道子に狼狽えながら、柳之介は道子の答えを待った。


「行かないわよ」

元々、道子には才能がなかった。
音楽を聴くことは好きだったし、もちろん演奏することも大好きだった。
けれど、道子には決定的に、才能という、音楽をする上で、絶対的な揺るぎのないものが欠けていた。

「いや、行くべきだ。道子にはチェロの才能がある」

柳之介はそう言い募る。
彼としては、努力の鬼である道子に、音楽を諦めて欲しくなかった。
それに、彼は耳にしてしまったのだ。

このコンクールで入賞できなければ、道子はチェロを止めてしまうのだと。
学生最後の大勝負だと、道子は朗らかに宣言していた。


「だめよ、私が行ったところで柳之介の足手まといになるだけよ」

柳之介は気鋭のオーボエ奏者だった。
恐らくこのコンクールでも、彼は優勝するだろう。そしてソリストとして世界中を飛び回るのだ。
この大きい大会での順位を気にせずに留学を決めているなんて、柳之介の余裕が現れている。
こういうところで、道子と柳之介は気が合わないのだった。
いつでも自信に溢れている柳之介と、不安に押し潰されそうになっている道子。
それを、道子だけが苦々しく思っている。

「そんなことないはずだ」
「いいえ、そうよ」

会話に何処と無く既視感を覚えて、道子は記憶を手繰り寄せた。
そうだ、こんな問答を別れた時にもしたのだった。柳之介としては、まだ道子と付き合っている気分らしいが。

「道子はそうやっていつも自分を否定してばかりだ」
「あなたはいつも自分を肯定してばかりね」

道子は話すのも嫌だと、一切の返答も聞かず、またイヤフォンを耳に刺した。
二曲目は、アップテンポのサンバのリズムだった。
この曲だけは、ボーカルの声が前面に出ておらず、周りの打楽器が陽気にリズムを打ち鳴らす。ボーカルの分を弁えた演奏を聴いて、道子は引くことが大事だと、自分に言い聞かす。

目をつぶり、大音量で流していると、柳之介が諦めて立ち去る気配を感じた。
道子はその気配を追いながら、サンバから落ち着いたバラードへ、曲が変わるのに耳を澄ます。

鼻に熱いものがこみ上げてくるのを感じる。滑らかで緩やかな曲は、道子の荒んだ心を優しく撫でているようだった。

道子は痺れてくる目頭をそのままに、目を決して開けまいと意地になっていた。

頬を流れるものの正体を見てしまえば、いままで耐えてきたことのすべてがふいになるように思えた。

大学を卒業し、道子はそのまま東京を出ようと思っていた。

父の実家である祖母の家に一年間借りして、今度は一般の四年制大学へ進学するつもりだった。
ひたすら音楽に捧げてきた人生は、社会に溶け込むには異質過ぎる。

それに、道子は期待していた。
きっと音楽でない場所ならば、道子にも活躍できる部分があるに違いない。

音量を落とし、道子がゆったりとしたクラシックを楽しんでいるところに、アナウンスが流れた。今大会の結果がこれから発表されるようだ。

入賞してるわけはないと思いつつも、想いを断ち切るために、道子は重い腰を上げた。

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