早春譜
 正樹と美紀は高校野球の抽選会より早めに大阪に来ていた。

インターネットに掲載された昭和四十五年に起きた誘拐事件を調べるためだった。


当時の産婦人科はショッピングセンターに変わっていた。

あの誘拐事件の後、新生児室に簡単に犯人が入れたことが問題となって、院長が責任を取り病院を閉鎖したのだった。


地元の警察にも行ってみた。
でも四十年近くも経っている事件の担当者もいる筈もなく、二人は早くも暗礁に乗り上げていた。


仕方なく其処にあったメモ用紙に連絡先を記した。


「長尾正樹って、もしかしたらプロレスラーの? そう言えばポスターが貼ってあったな」


「あっ、今はセコンドを遣らせてもらっています。近いうちに此方で公演がありますので、是非おいでください」

一応、営業トークも欠かさない正樹だった。




 「ごめん美紀。パパの力不足だ」
警察を出た途端に正樹はため息を吐いた。

美紀は首を振りながら正樹に寄り添った。




 カプセルホテルの階違いに二つ部屋を取り少し休むことにした二人。

貴重品だけキーボックスに入れ、正樹は鍵のない寝室になだれ込んだ。


そのカプセルホテルは階違いに女性専用スペースがある。

一般的には男性専用が多いのだが、此処は階毎に仕切るタイプだった。

料金は一般的なホテルに比べて格安で、二千円から三千円程度だった。
だから高校野球シーズンともなると満室になってしまうのだ。


正樹は美紀を気遣いつつも、よっぽど疲れたのか深い眠りに落ちていった。


ホンの少し疲れを癒す。
それだけだったはずなのに……




 目を覚ますと、横に美紀が眠っていた。


(美紀……、何てをことを……)

正樹は戸惑っていた。


正樹が眠ってしまったことで不安になったのだろう。
頬には涙の跡があった。

正樹は抱き締めたくなる気持ちを必死に押し殺した。

無防備な美紀を抱くのは簡単だった。

でもそれをすれば、美紀を苦しめる。
美紀を愛している秀樹・直樹・大も苦しめる。

正樹はただ耐えていた。

美紀を深く愛し始めた正樹の選択だった。


『お前らー、まだ美紀はお前らのお母さんじゃないんだぞ』

優勝決定戦の朝の言葉を思い出した。


正樹はその時に気付いたのだ。
本当は美紀を妻として迎えたがっている自分に……

だから尚更苦しいのだ。
だから尚更愛しいのだ。


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