ビタージャムメモリ

「そりゃ捨てたくもなるよな」

「歩、捨てたんじゃないの、私」

「ま、それはいーや。ここ座っていい?」



打って変わってあっけらかんとした態度になり、歩くんは誰の応えも待たず、私の隣に座った。

さっきまで先生が座っていた場所だ。



「土曜に話すつもりだったけど、今でもいいよな。その前にまず、確認しときたいんだけど」



正面の梶井さんに向かって、気負う様子もなく話しかける。

凍っていた空気が、再び流れだした。

立ち尽くしていた先生は、我に返ったようにはっとし、こちらに戻ってくると、歩くんのソファの背に腰かけた。



「確認とは、何をかな」

「えーと、俺に声かけたのってさ」

「あ、誤解しないでね。確かに歩くんに注目したのは、かすみさんから事実を聞いてからだけど、あくまできみに惚れ込んだから声をかけたんだ」

「ありがと。なら、もう少し待ってもらうことはできる?」

「待つ、とは?」



首をかしげた梶井さんに、歩くんは言葉を切って、視線を落とす。



「俺、大学に行きたいんだ」



思わず、彼のほうを見た。

膝の上で手を組んで、自分の気持ちに一番合う言葉を慎重に探しているみたいに、じっとその手を見つめながら話している。



「もっとちゃんと、音楽の勉強したいんだ。でも俺、試験も受けてないし演奏会も出てないから、今年は卒業できない。もう一度3年やらないと」

「じゃあ、音大に行きたいということ?」

「そう。学校に訊いたら、ダブっても選抜の参加資格はもらえるって」

「自分で訊いたのか」



思わずといった感じに、先生が尋ねた。

歩くんはバツが悪そうにうなずく。



「そうだよ。でも俺、2年の時もサボりがちだったから、その分のレッスン受けるのが進級の条件で、最近よく出かけてたのは、そのせい」



最後の説明は、私に向けたものだった。

バイオリンを持って、終日どこかに行っていたのは、そのためだったのだ。

誰にも頼らず、自分で学校と交渉して。

目標のために。

< 177 / 223 >

この作品をシェア

pagetop