うそつきハムスターの恋人
十階の廊下はしんとしていた。
部署内にまだ残っている社員はいるものの、廊下には誰の姿もなかった。

「文句言ってもいいと思うけど」

エレベーターを降りたところで、加地くんが急に立ち止まる。

驚いて振り返ると、加地くんは小さなため息をひとつ漏らした。

「ああいう時は、『誰その女』くらい言ってもいいと思うけど」

加地くん、やっぱり見ていたのか。

加地くんは「大澤さんがそんな言い方できるわけないか」と付け加えて苦笑した。

「なんで言わないの?」

真剣な目をして、加地くんは私をまっすぐ見る。

「……言えないよ」

だって、本当の恋人じゃないもん、私。

「我慢はよくないよ」

「我慢なんてしてないよ」

「じゃあ、平気なの? ああいうの」

私は言葉に詰まってうつむいてしまった。

平気なんかじゃない。
だけど私は……。

「……本当の彼女じゃないから?」

思わずはっと顔を上げた。
加地くんは、少し怒ったような顔で私を静かに見つめている。

「ずっとおかしいと思ってた。俺が水嶋さんの怪我の具合を聞いたとき、よくわからないみたいなことを言ったのに、次の日の朝にはもう付き合っていて、しかも一緒に暮らしてるなんてさ」

そうだった。

『一ヶ月……って言ってたかな? よく知らないけど』

加地くんに聞かれて、たしかに私はそう言った。
あのときは、まだ付き合ってる振りをしろって言われてなかったから。

「怪我させたお詫びに一緒に暮らしてるの? もしかして、水嶋さんに一緒にいろって言われた? 本当は付き合ってなんかいないから、文句言えないんでしょ?」

「……ちがう」

「じゃあどうして?」

私はまた黙り込む。
本当のことは言いたくなかった。
加地くんはこんなにも私のことを気にかけてくれている。

もし本当のことを言えば、夏生に直接話をしに行くかもしれない。

「付き合ってもいないのに、一緒に暮らすなんておかしい」と。

夏生との生活が一ヶ月で終わるとしても、せめてその間は一緒にいたかった。
どんなに苦しくても、夏生のそばにいたかった。

「怪我が治れば……全部終わるから。終わりにするから。だから、今はそっとしておいて欲しい」

そう。
なにもかも終わるから。
夏生との生活も、恋人の振りも。
全部、終わるから。

加地くんは、はぁぁと大きなため息をついて、頭をぐしゃぐしゃとかきむしった。

「わかった。ごめん」

そして、がさがさと音を立ててコンビニの袋から私の好きなデニッシュを取り出すと、私の手にはい、と載せる。

「……ありがと」

「……怪我が治れば、本当に全部終わるの? 」

加地くんが確認するように、私を覗き込んで質問する。

私はこくりとうなづいた。

「全部、終わる」

「わかった。じゃあもう言わない」

加地くんはそう言って微笑み、「仕事しよっか」と、営業部に向かって歩き始めた。





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