才川夫妻の恋愛事情



彼は事務の女の人から印鑑を受け取っていたのだ。



それもそれで良くわからない。
人の印鑑が必要なことなんて、そんなにあるものなんですかね社会人には。

その上、彼は無言で手のひらを出してそれを要求し、彼女も無言でそれに応えているというのだからますます不思議だ。



「……ちょっと野波。今の話聴いてた?」

「えっ」

「初日からよそ見? 良い度胸ね」



慌てて向き直ると先輩は美しく口角をあげて微笑む。まだメールを返しているのか、と思って画面を見るとウインドウは企画書に切り替わっていた。いつの間に。



「まぁいいけど。初日なんてガチガチに緊張して力入っちゃうのが普通だから、それくらい余裕でいてくれるほうが有望だわ」

「すみません、松原さん……」

「いいわよ。私もあなたと同じで入社したての頃は――」



と松原さんが昔話に入ったところで再び私の視線は吸い込まれるように彼と彼女のほうへ向いた。コーヒーを部長に出した女の人が、空のお盆を持ってまた彼の後ろを通るところだった。



彼はやっぱり一言も発さずに。

先ほど何かを記入して印鑑を押した書類を、ばっと自分の背後に渡す。

彼女も特に驚くことなく、少しだけ幼さの残る顔で彼を一瞥して書類を受け取った。





なんだ。

なんなんだこの二人。




「ちょっと、野波……?」




松原さんの声が今度は少し怒気をはらんでいても、反応できないくらいに釘付けだった。




なぜならば。




彼女は笑っていたのだ。

受け取った書類で口元を隠していたけれど、でも、絶対に。



笑っていた。









不思議なものを見た気分だった。








冒頭からこんなに出しゃばっておいてなんですが、これは私、新入社員・野波千景の物語ではありません。


私が出社初日に見た、どこか違和感のある彼と彼女の物語です。
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