笑顔のかみさま【ぎじプリ】
本店に配属されて初日。朝礼で挨拶を終えると、早速窓口に座った。
開店前に簡単な引継ぎを済ますと、ブラインドがあがる。九時まで、もうあと五分。
月初だからか、すでにお客様がいる。ずらりと並んだ列は、前までいた支店と比較にならない人数だ。
忙しいとつい笑顔を忘れてしまう。……やっぱり、彼と離れるんじゃなかったかな。
不安が押し寄せてきて、気持ちを落ち着けるように、彼に噛みつかれた指先にそっと触れる。
……もう、彼はいない。でも……分身はいる。
あと三分で開店。
わたしは急いでペンケースに入れていた彼の分身を取り出し、ボールペンを握った。別れた彼と同じように、端末画面の縁にたった今出会った分身の身体を預けてやる。
分身は無表情だった。別れた彼と同じ黄色いかみをしているが、色鮮やかでシャンとしている。分身は分身で、やっぱり彼じゃない。それでも心を落ち着けたくて、話しかける。
「ねぇ……キミにとって、しちゃいけないことってなに?」
分身の彼は話しかけられると思っていなかったらしく、少し驚いてから口を開いた。
「えっ……? まぁ、俺ら使い捨てだし……この世に未練を持つことじゃないかな」
「未練……?」
「未練持ったら、最後までゴミ箱の底に貼り付いたり、シュレッダーの入り口に引っかかってみたり、持ち主の指に切り傷作ったり……かっこ悪いことしちゃうんだよね」
別れた彼が頭に思い浮かぶ。
「未練なんて、持つことあるの?」
「あるよ。……アンタに恋しちゃ、終わりだ」
想像もつかなかった言葉に思考が止まる。熱くなる胸を押さえると、今度は目の奥が熱くなってきた。
「おっ、おい! なに、泣いてんだよ。もうすぐ窓口開くぞ! ほら、笑顔、笑顔!」
分身の彼は自分のお腹を突きだし、ボールペンで書かれた“笑顔”という文字を指差した。
必死にわたしに主張してくるところは、最初に出会った彼と同じだ。
「うん……わかってる」
わたしは笑顔を浮かべてみせた。いつもより、目は赤いかもしれない。
「横川さん、初日だけど大丈夫? 伝票類は揃ってるよね? 自分の使いやすい位置にセットしてくれたらいいから」
隣の先輩が不便はないかとわたしのデスクを覗き込んできた。そして、端末画面の側にいる分身の彼を見つけると目を丸くする。
「それ、なにかのおまじない? 黄色い付箋に“笑顔”って書いて貼ってるやつ」
「はい……これがあると、忙しくても笑えるんです」
「あー、意識してないと忘れるときあるもんね。わたしもやろうかな」
「かなり、効きますよ」
黄色いかみにチョイと触れると、彼はくすぐったそうに身体を揺らした。
END
擬人化したもの → ふせん


