恋色紅茶~コイイロ・コウチャ~

『彼』は、確かに私の部署内の事情をよく知っていた。

先程の鈴木さん云々もそうだが、仕事内容ももちろん、人事の誰さんと誰さんが不倫しているとか…そんな井戸端会議の内容まで。

一度「どうしてそんな話まで知っているのか」と聞いたことがあるが、彼は「だって君が最近俺のことを放っておくからでしょーよ」と曖昧に笑うだけだった。


正直な、話。
孤独極まりない独りの残業時間に『彼』が傍にいてくれることはとても有難かった。

でなければ、この記号の羅列に独りで向かい合い
やたら塩辛いカップラーメンを啜って、
熱さで生理的に浮かんだ涙を拭い、途方もないやるせなさと戦わなければならなかった。
自分の机にしか灯されない明かりほど、心さびしいものは無いのだ。


私より年上(であろう)彼は、とても上手に寄り添ってくれた。

キーボードを叩く手元を止まらせないくらいの単純な会話。
心理的に負担にならない、特別答えを考える必要もない単純な話題。

それを選ぶのが、彼はとても上手だったのだ。


しばらく彼は山田さんの机上を見ていたが、興味がそそられる物が無かったのか、ぼそぼそと話し始める。


「君、最近紅茶も珈琲も飲まないんじゃない?」

「そうですかね…まあ、日中も忙しいんで」


パタパタパタ…。
キーボードの音が、会話を埋める。


「知り合ったばかりの頃は、そりゃあもうこっちが恥ずかしくなるくらい熱烈なキスしてたのにね」


それが気に入らなかったのか。
ほとんどおちょくる口調に、私は弾かれるように彼を向いた。


「っ、変な事言わないで下さい!何ですかそれ!」

「うん?別に、変な事ではないよ?俺はただ事実を……いてっ!」

「そんな事言って仕事の邪魔をするなら、もう出てって!」

「あー、うんうん、分かったよ、ごめんね、そう怒らないで」


いきり立った私を、彼が宥める。
その目尻には皺が少しだけ浮かんでいるのが見えた。


「あっ!そういえば」

「……なんですか」

「もう9時を過ぎているよ」

「…知っています、嫌という程」

彼に振りあげかけた拳は何だか気力が無くなり、再びキーボードへと戻した。
私の怒りが無くなったと見たらしい彼が言う。


「じゃあ、一息つこうか。温かいミルクティーなんかどうだい」

「話をごまかそうとしてますよね」

「はは。そんなことないよ。
まあ待っててごらん。砂糖多めで良かったね?」


そう言って彼は給湯室へスルリ逃げ込む。

パタパタ、パタパタ…。
キーボードの音が、まだまだ続く。


数分経てば、人気の無かったオフィスに湯気が一筋忍びこんできた。
カッチリとした緊張感のある空間を、柔らかく解すようだ。


「はい、どうぞ。インスタントで悪いけど」

「いえ…ありがとうございます」


温かいマグを両手で包めば、じんわりと体温に溶けていくようだった。
熱いくらいのソレは、冬が始まった今の季節、冷え症の私にはとても有難い。

唇でフウフウ紅茶を冷ます私を、彼は頬杖をついて、眺める。

何が楽しいのだろう。
いつもそうやって、目が合えば、ミルクティーと同じくらい柔らかな笑顔で微笑むのだ。


「美味しいかい?」

ほら、今もこうやって。

「…美味しいです」

「そう、なら良かった」


再び淡い静寂が流れる。
彼は手持無沙汰で、私の机上に転がったままの小さな瓶を指で弄る。


「栄養ドリンクばかり飲んでたら、本当にそのうち体を壊してしまうよ」

「…」

「ただでさえ、君は人より残業が多いんだから」


彼からの真っ当なアドバイスを、私は目の前のミルクティーをただ啜るだけで回避しようとした。
それでも彼は、私に呆れることもなく、またぼんやりと口を開く。


「君、知ってる?涙で淹れる紅茶のお話」

まるで昔話の語り始めのように。


「あるフクロウが、今まであった悲しい事を一つ一つ想い浮かべて、涙を浮かべる。
お気に入りのスプーンを無くしてしまったな、とか…そんな涙を、ティーポットへと落とすんだ。
一粒、一粒。ぽつり、ぽつり。
ティーポットがいっぱいになった頃、フクロウ君は美味しい紅茶が飲めて笑顔になれました、って童話」


「涙の紅茶なんて、塩辛そう」

「ははは、確かにそうだね」


でも、と彼は唇を結んだ。


「作者は、涙が零れるほど辛かった事も、いつかはまるで紅茶を飲むような過去に変わっていくって言いたかったんじゃないかな」


「……私に対する励ましですか」

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないね」

私は咄嗟に、鼻を拭くふりをして自分の目下に指を置いた。
気のせいだ、きっと。
私はまだ泣いていない。

…まだ、泣いていない。
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