新天地へ
痛みのない別れ
 ロープがぴんと張った。はっとして思わず掴んだ。
 ロープはそのまま横に伸びていた。再びぴんとはった。今度は二度。
 ごくりと唾を飲み込んだ。成功したんだ。彼は無事廊下に入れた。あとはわたしが向こうへ行くだけ。一番難しい所はもう終わったんだ。
 そう、一番難しい所は終わった。道は開けてるんだ。そう言い聞かせた。
 心なしか、さっきよりも風が強くなっている気がする。横に張ったロープが大きく揺れる。ロープは一本しかないから、わたしは命綱なしでここを渡らなくちゃ行けない。
「大丈夫。」
どう考えても大丈夫ではなかった。風は強く、手は汗でぬめり、腕も限界だった。
「やっぱり無理だよ!」
風にかき消されないように大声を上げて彼に言った。何も返ってこない。
「ねえ!」
ロープがもう一度ぴんと張った。聞こえているのか、それとも急かしているのか、わたしにはもうわからなかった。
 ぐうっと恐ろしさが沸き上がってきて、梯子を握りしめたまま目をぎゅっと瞑った。
 そして、ゆっくりと目を開けた。進み続けるしかないんだ。こんなところまで来てしまったわたしには、もうそれしか残っていないんだ。
 試しに梯子に乗せた足を離した。ぶらんと垂れ下がり、手だけで体全部を支える。案外大丈夫だった。再び足を梯子に乗せて、片手ずつ服の横で汗を拭いた。
「よし。」
 固い結び目を解くのも一苦労だった。片手で梯子を握りしめながら、もう片方の手で少しずつ結び目を解いていく。
 ようやく緩まってきたところで、体を傾けてロープを梯子の手すりに抑えながら慎重にほどいた。万が一失敗して解けた時に手を離すとロープだけが向こうに行ってしまう。
 梯子から完全にロープが離れた。もしいまこのロープを手放せば全てが終わる。
 次にロープを胴体に巻き付けようとした。そうすれば飛び込んだ衝撃で手が滑っても大丈夫だろうという計画だった。でも片手で梯子を持ったまま、自分の体に巻き付けて固く結ぶなんて芸当はわたしにはできなかった。
 もういいと思って、できるだけロープを繰り、ためらいなく梯子から飛び降りた。
 落下と同時に裏側まで回されたロープに引っ張られ遠心力で限界まで腕に力がかかる。予想以上の速度と回転に向こうまで着いた時に耐えられないと察した。
 世界がぐるんと回り、勢いが止まらず反対側をさらに超えてわたしはビルを飛び出した。
 あっと思う間もなく壁に衝突した。体全体が重い衝撃を受け、予想通り衝撃に耐えられず握ったロープがずるずると滑り出した。真下は何も無かった。
 お願いだから止まってと願いながらずるずると滑る手に力を入れ続けた。
 それから何度か振幅した後、わたしは扉の真下にぶら下がっていた。あと数センチ。それでわたしの旅は終わっていた。体は完全に宙に浮いていた。
 上を見上げると黒い顔がこちらを向いていた。
「やった・・・。なんとか耐えたよ。」
「いま引っ張るから待ってろ。」
十センチずつか、それぐらい、少しずつ、それでも着実にわたしは引き上げられていた。腕はもうとっくに限界だったけれど、そんなことはもう平気だった。一番大変な時はもう越えたんだ。
 ロープにしがみつきながら、わたしはとうとう、中枢区へ繋がる廊下に入っていった。

「はあ、はあ、さすがに疲れたな。」
 わたしと彼は廊下に敷かれたふかふかの蒼い絨毯に横たわっていた。
「よく扉開けられたね。」
「鍵は開けられたんだが、扉を開けるのがね。飛び込んで無理矢理入ったよ。」
「ええー。痛くなかった?」
「頑丈だからな。」
 二人で息を整えていると、
「さあ、もう行かないと。時間がないぞ。」
そう言って彼は黒い腕時計を見た。
「もう少ししたら、あそこからたくさん人が来るからな。見つかったらまずい。」
廊下が延びる反対側を指した。それは梯子が掛かっていた細く四角いビルの中身だった。
 初めて漆黒のビルの中身を見た。内側も漆黒の石のままで、廊下の半球ドームから届く太陽の光に照らされて薄明るい。四角い部屋の中央に、蒼い光の完璧な円に縁取られて、ぽっかり穴が開いていた。
「あそこから上がってくるの?」
「そう、次々とくるんだ。まあ、向こうにもあるから、乗ってみるといい。さあ、本当に時間がない。もう行け。」
 わたしたちは延々と続く廊下を見た。
 ここに這い上がって来たとき真っ先に目に飛び込んできたのが、この銀色の機械だった。廊下の傍に置かれたそれは、どう見ても自動改札機だった。
「わたし、これ知ってる・・・。」
「そっちにもあるのか?少し前まではもっと複雑だったんだが、いかんせん一人認証するのに時間がかかるっていうんで、こんな簡単なやつになったんだ。おかげで、パスポートを作りやすくなったってもんだ。」
「こんな大事なところ、簡単になっていいの?」
「その代わりに、半日でパスポートを更新する羽目になったんだ。だから、今日の昼まで。あと六時間弱しかない。」
 昼になるまでに、全てを終わらせてくるんだ。彼はそういった。まるで昼のシンデレラだな、と思った。わたしがシンデレラというのもおかしいけど、昼というのも色を持たないわたしらしい。
「パスポート持ってるか?」
わたしはポケットから取り出して掲げた。
「よし、使った事あるんなら、わかるだろ?かざせばいいだけだ。廊下は、突っ立ってるだけで運んでくれるから、大丈夫だ。向こうに着いたら、あとはなんとかなるだろう。まあ、よく、ここまで来れたな。」
 いまだに足ががくがく震えていた。腕もパスポートすらずっと持っていられないくらい限界だった。これからも、これからが大変なのに、わたしはもう、そんなこと全てがどうでもよくなっていた。
「ここでお別れなの?」
「ああ、そうだな。俺は向こうには行けない。もう、戻れない身だからな。」
 わたしは俯いて下にぽっかりと口を開けた扉を見つめた。
「あれ・・・。」
重大なことを忘れている気がした。
「あれ、どうやって帰るの?」
ロープは目の前にあり、梯子は相変わらず真反対にある。
「ああ、そりゃもちろん、飛び降りるんだ。」
 時が一瞬止まったようだった。あの計画は一方通行だったんだ。行けばそれで終わり。帰りの計画なんてなかった。最初から、わたしを送り届けるためだけの計画だった。
「うん?頑丈だから、落ちても大丈夫なんだぞ。」
「そういう問題じゃない!」
 目の前の彼がうるさかった。消してしまいたかった。こんなわたしのために、ここまでしてくれて、わたしは一体どうすればいいのかわからなかった。
「な、なんなんだ一体・・・。」
「じゃあ、もう行くからな。まあ、楽しんで来いよ。」
 そう言って彼はポールに結んだロープを解き始めた。だめだ、あと少しで終わってしまう。どうしよう。どうしよう。わたしはどうしたいんだろう。
 彼はロープを綺麗な輪っかにして肩に担いだ。
「扉と鍵は閉めてくれよ。ばれちゃまずいからな。」
「パスポートが通るまでここにいたら?もしかしたらこれ、使えないかもしれないよ。」
 言ってからしまったと気づいた。
「ああ?疑ってるのか?絶対大丈夫だよ。それにどのみち、お前はここから帰れないからな。俺がいてもいなくても変わらんよ。それより、扉は絶対ちゃんと閉めるんだぞ。見つかったら元も子もないからな。俺が飛び降りたらすぐに閉めてもう行くんだ。」
 違う、わたしはそんなこと思ってるんじゃない。
 ぽっかり開いた穴に手を掛けて、彼はいよいよ飛び出そうとしていた。その穴はまるでわたしの心にできた穴のようだった。わたしは服をぎゅっと握りしめた。このまま終わってしまっていいんだろうか。
「いや・・・、よくない。わたしまだなにもしてない。」
「ま、まって。」
 わたしは彼の小さい手を引っ張った。
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