恋風吹く春、朔月に眠る君


昇降口で靴を履き替えながら、鞄からスマホを取り出して時間を確認する。いつもより15分は遅い。これは流石に怒られる。急いで階段に向かい、二段飛ばしで駆け上がった。

つい先日も私は音楽室へ向かう道程を全力で走ったというのに、ついてない。階段を登り切ったところで弾む息を少し整えながら、このフロアの隅にある音楽室を目指す。

すると、その音楽室から微かに音が漏れていた。この前はピアノの音は聞こえてこなかったのに。もしかして、防音扉が少し開いてるのだろうか。


 そういえば、この前は中庭からでもピアノの音が聞こえていたのは窓が開いていたからか。桜が咲くほど暖かくなってきたとはいえ、窓を開けておくにはまだまだ寒い。彼の用意周到さには呆れる。

溜息を吐いて、見えてきた音楽室の扉に近づく。音が徐々にはっきりと輪郭を持ってくる。旋律として聞こえた時、戦慄が走った。足が動かないどころか、力が抜けて座り込む。


「なに、これ......」


案の定、半開きになっていた防音扉の向こうからは朔良のピアノが漏れていた。でも、朔良のピアノなのに、朔良のピアノじゃない。

朔良のピアノの音はいつも柔らかくて、優しくて、繊細だ。木漏れ日が風に揺蕩うように暖かくて、それでいて少し影を落とすような仄暗さを持っていたりもする。

でも、扉の向こうから聞こえてくる音楽は何度も何度も重ねられる鮮やかな赤に落ちていくみたいだ。息苦しくて、口を開けばひりつくような熱さに喉が焼かれる。

一言で表すなら情熱的な恋の音。それも心の奥底で燻る秘められた想いを、消化できない感情を、全て注ぎ込まれたみたいな音楽だ。今まで、彼の音楽でこんな音を聞いたことがない。それが余計に苦しい。


 だって、これはきっと、彼が持つ誰かに対する感情を表したものだから。誰だろう。その音を向ける相手は誰だろう。そんなことを考えれば虚しくなるのに考えてしまう。

何度だって、好きだと言わないと決めた。何度だって、この想いはいつか消してしまおうと決めた。それでも今すぐに、この苦しさから逃れたい。全て忘れて去ってしまう方法を知りたかった。


 音楽室とプレートが上に張られた防音扉を一点にみつめた。ぐにゃりと視界が歪む。座り込んで、手をついているはずなのに揺れているみたいだ。

胃から食道を伝って迫り上がってくるものが気持ち悪い。それほどまでに春の柔らかな雰囲気とは不釣り合いな彼の音楽が私にとって凶器だった。


 何かが私の頬を一滴伝ったと気付いた時には、伝った跡が乾いていた。


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