恋風吹く春、朔月に眠る君


楓に言ったように、お昼を過ぎてから朔良の家に行った。インターホンを押すと朔良が出てきて、嬉しそうに顔を綻ばせた。


「朔良、誕生日おめでとう!」

「ありがとう」


開口一番に告げて、プレゼントを渡すと照れくさそうに笑って受け取った。


「何度言われてもちょっと恥ずかしくなるね」

「でも、嬉しいでしょ?」

「もちろん。あ、ほら、上がって。今日は双葉のリクエストいっぱい聞くよ」


春休みだからなかなか友達に祝ってもらう機会のない朔良の誕生日。昔は楓も含めて三人でお祝いをしていた。でも、中学に入ってから楓だけが参加しなくなって四回目。二人でするのが恒例になった。

その中で朔良は、誕生日になると私のリクエストを聞いてたくさんピアノを弾いてくれるようになった。小さい頃より格段に動くようになった朔良の指はレパートリーが増えて、聞くのが本当に楽しい。

朔良の部屋とは別に作られた防音完備のピアノ専用の部屋。学校と同じ眩いほどの鮮やかな黒が映えるグランドピアノがその真ん中に堂々と置かれている。蓋を開けて、キーカバーを外し、椅子に座った朔良がこちらを向いた。


「まずは何がいい?」

「いつもの曲がいい」


即座に答えると『そう言うと思った』と悪戯な笑みを浮かべた。鍵盤の上にスタンバイした手が滑らかに動く。甘く柔らかな音が私の身体を包んだ。いつもの優しい音楽が心地いい。

あの日のような熱情に溺れそうな音楽じゃない。それに心底安心した。自分の気持ちに少しだけ肯定的になれてもそれを告げる気にはやっぱりなれない。あの音楽が私を引き留めるから私はどうしたらいいのか分からない。

傾き、流れるように落ちる思考。折角、朔良がピアノを弾いてくれて嬉しかったのに、私の気持ちの浮き沈みは激しい。観客は私一人だけの朔良のコンサート。私にとってはこれほど贅沢な時間はない。楽しまないと勿体ないよと私の中の私が囁いた。

その通りだ。折角の時間を無駄にしてしまうのは勿体ない。朔良のピアノが好きだから、今はあのことは忘れよう。笑顔で弾く朔良を眺めながら音楽に呼吸を合わせる。

今日の朔良の音はとても楽しそうだ。小鳥が囀るように、音が楽しそうに踊っている。自然と笑みが零れて楽しくなった。ついついあれもこれもとリクエストをしているうちに二時間近く経過していた。


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