羊が呼吸を止めない夜は
羊が呼吸を止めない夜は




眠れない夜にすることなんて、片手で足りる程もないものだ。じりじりと音を立てて灰に変わってゆく煙草の煙を眺めるか、窓の向こうに意識を投げるか。それとも閉じた瞼の裏に羊を数えるか、君と素肌を重ねるか。

奪い合うような口づけのあとで、よく知ったシャンプーの香りが鼻先を掠めて消えていった。思いつく全てに手を伸ばしてみたところで、それでも眠ることのできない夜がこの部屋にはいくつも転がっている。

予報によれば、今日はひどい雨らしい。


あいしてるよ、と言ったら、うそつき、と君は笑った。気だるげに投げた身体が安いベッドに馴染んだ頃、時計の針はまだ今日が明日に変わったばかりで、朝はどうにも遠かった。


「しんじゃおっかなぁ」


それはまるで無邪気な子どものような、とても楽しげな声だった。鼻歌まじりに呟いて、何でもないように僕を見た君の瞳が、間接照明の淡い光に照らされて、ゆらりと夜に溶けてゆく。

安い慰めを貰うための独り言すら上手く使いこなすことの出来ない君がどうにも愛おしくて、少し冷えた指の先に、残り香を辿るようにして君の髪を絡めた。

死にたいだけならそれでいい。手首にカッターナイフを押し付けて、薄い傷口を見せびらかしながら、泣いて喚いてくれたらいい。ビルの屋上を真っ直ぐ目指して、夜風に揺れながら安い感傷に浸れたらいい。

そんなことすら出来ないまま、中途半端に現実を引きずったその足で同じところをいつまでもぐるぐると回っている。なんて惨めで愚かだろうか。なんて不毛で、なんて愛しい悲劇だろう。


「しなないでね」

「うん、しなない」

「僕をひとりにしないでね」

「しないよ、約束」


冷えた小指を絡めた先に、何かを求めているわけじゃない。それでもこんなに小さな熱が気休めになるなら、それはとても、幸せなことだと僕は思うんだ。
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