婚約はとろけるような嘘と一緒に

◇タカミさんの薬指◇


2 ◇ タカミさんの薬指



(あ。タカミさんだ)


控室で制服の白いシャツとエプロンを身に付けて出て行くと、カウンターの隅っこに久し振りにその人が座っているのが見えた。

ひばり舎は新規のお客様より、涼子さんの珈琲に魅せられた常連客の来店率の方が高く、タカミさんもその一人だ。

なかなかの珈琲通な方らしくて、タカミさんはお店で提供している珈琲のことをよく尋ねてくる。基本無口で職人気質な涼子さんはキッチンで黙々と珈琲を淹れているから、いつも私が受け答えを担当していた。

そうしているうちにタカミさんが来店なさると珈琲談義をするのが半ば習慣みたいになって、そのおかげでタカミさんとは他のお客様よりも緊張せずに話せるようになっていた。

でもそれは慣れだけじゃなくて、タカミさんの人柄に依るところが大きいのかもしれない。

私はあまり社交的な方じゃなくて、声を掛けられない限り自分からお客様に話し掛けたり出来ない方だけど、タカミさんはいつも自分から「こんばんは」とやさしい声で挨拶してくれる。

お喋りな人じゃないけれど、顔を合わせれば「ずっと立ち仕事で大変だね」とか「遅い時間までご苦労様」と一言二言さりげなく労いの言葉もかけてくれる。

他のお客様からタカミさんは何かの事務所の所長をしていると聞いたことがあるけれど、同じ経営者でもお父さんのように威圧的なところが全然ない。いつも穏やかで、静かに珈琲を堪能している姿も様になっていた。

そんなタカミさんのことを、ひそかに“理想的な大人の男の人”だなんて思っていた。



「こんばんは、いらっしゃいませ。………タカミさんもこんばんは」

他のお客様にもご挨拶しながらタカミさんに声を掛けると、タカミさんはすぐに顔を上げる。でもその表情を見て驚いてしまった。

ひばり舎には仕事の気分転換に来るとおっしゃるタカミさんは、来店なさるときはたまに難しい顔をしていることがあるけれど、今日は一段と浮かない顔をしている。ちらりと盗み見ると来店したばかりなのかまだ手元にカップはなかった。

(タカミさん疲れてそう……お仕事が大変な時期なのかな………?)

そう思ったけど、自分から話し掛けることが出来ない。

とりあえず注文だけでも聞いておこうと思うのにタカミさんの様子が心配で、けどお客さんに対して体調のこととかお仕事のこととか踏み込んだことを聞いてもいいのかわからなくて、視線だけが合ったまま沈黙してしまう。

そうしていると、タカミさんは突然ふっとちいさく笑った。


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