レンタル夫婦。
プロローグ


――残り、28日。


カチコチ、と時計の音がやけにうるさく聞こえた。
時計の針は、午後19時半を示している。

そろそろ帰ってくるのかな……なんて考えては、ダイニングのテーブルの側を行ったり来たり。

2LDKのマンション。
築数はまだ浅く、床も壁も綺麗。
壁が厚いのか、隣の部屋の音も上の階の音も聞こえない。
一人では、広すぎる空間。
私は、今日からここに住むことになった。



――ピンポーン

テーブルの側を何往復したか分からない頃、インターホンが鳴る。
待っていたくせに体は不自然に動悸を始めた。
モニターを覗き、音を出した相手を確認してから、緊張で冷えた指先で開錠のボタンを押す。

……押してから、無言でそれを行ってしまったことに気付いた。
どうしよう。
そう思いながらも玄関へ行き、チェーンロックと鍵を外す。いつ開いても良いように深呼吸をした。


「おかえりなさい……ご飯作ったけど食べる……」

小声でぶつぶつと、何度も何度も繰り返したセリフを更に繰り返す。
そうこうしていると、またインターホンが鳴った。

「! あ、あいてるよ……!」

玄関マットの上に立ったまま、つい声を張り上げる。
一瞬の間の後、扉がゆっくりと開いた。
先程モニターに映った姿が目の前に現れる。
仕事帰りとは思えない、ラフな格好。
ハイネックのカットソーにグレーのテーラードジャケット。
下は、濃いネイビーのデニム。
そんな恰好の彼は、玄関に体を滑り込ませ扉を閉め、鍵をかけた所で漸く私に気付いたみたいだった。
目が合うと柔らかく微笑まれる。

「ただいま、みひろさん。……待っててくれたんだ?」
「あ、うん、えっと……」

予想外の問いかけに、私は練習していたはずのセリフを度忘れしてしまった。
目の前の彼が眩しくて直視出来なくて、思わず視線を床へと逸らす。

「ん? どうかした?」
「! ううん! なんでもない!」

心配そうな声が落ちてきて慌てて顔をあげる。……とまた目が合ってしまって、私の心臓はおかしな程に主張を始めた。
やっぱり直視が辛くて、私はすぐに背中を向ける。

「おかえりっ。ごはん、食べる?」
「……うん、そうする」

背を向けたまま何度も練習したセリフをやっと口にすると、一呼吸置いて返事が返ってくる。
それにホッとして逃げるようにダイニングキッチンへ向かった。

「すぐ準備するから、待ってて」
「ん、じゃあ、手、洗ったりしてくるよ」

なるべく見ないように声をかけるとそれだけが聞こえて気配が消えた。
それにホッと息を吐いて、さっき作ったばかりの料理を温め皿に並べていく。

キャベツと油揚げのお味噌汁。
小松菜のお浸し。
キャベツの千切りに、豚の生姜焼き。
それから、炊き立てのご飯。

何を好きなのかも分からなくて、結局無難なメニューに落ち着いた。
それを二人分テーブルに並べていくと、ちょうど戻ってきた彼が口を開く。

「へぇ……これ、作ったの? 料理、得意なんだ」
「得意ってほどじゃないけど一応は作れるよ。……一人暮らし、長いから……」

感心したような声にどう対応していいか分からないままやや早口で返して、残りの食器も並べていく。
全て並べ終えた所で向かい側に座ると、それを待っていたように彼はそっと手を合わせた。

「いただきます」
「! どうぞめしあがれ……?」

反射でそう返すと、彼はおかしそうに笑う。
それをぼんやりと見つめた。

パッと見、テレビの中から出てきたみたいな。
そんな、整った顔。
パッチリした二重も、すっと通った鼻筋も、薄い形の良い唇も。
女の子みたいに長い睫毛も、短いのにさらさらの茶髪も、……ううん、顔だけじゃなくて。そこまで背が高い訳じゃないけど、程よく筋肉がついてすらっとした体も。香水なのか分からないけど、近付くたびにする香りも、全部。
“大好きな彼ら”みたいで。

こんな、アイドルみたいな彼と一緒の部屋に暮らすだなんて……何だかもう、一生分の運を使い果たしたみたい。


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