唇トラップ


今日は家で仕事をするだけだから夜までいてくれていい、というエリーの言葉に。
一度首を振れば、直ぐに頷いて引き止められなかった。



家まで送るという言葉に甘え一緒に部屋を出てから、エリーはもう一度も私に触れては来なくて。
マンションのエントランスも、車を出す立体駐車場でも。
私たちは、絶妙な間隔を空けて言葉少なに歩いた。



私を降ろして、「また明日。」と手を振って。
あっさり走り去って行く車を見送りながら。

私を察知するエリーのアンテナの高さに、つくづく脱帽する。





楽しかった夜は過ぎて。
私は“終わり”を始めないといけない。












丸一日ぶりに帰った部屋。
寝室でアクセサリーを外して、そのままバスルームに向かう。

普段はお湯を溜める派だけど、今日は迷わずにシャワー。
熱い勢いで、汚れを流していく。

CHANELのサヴォンの香りに包まれたら、記憶が込み上げてきた。



これにも、あれにも。
至るところに柊介が根付いてる。
共に過ごした時間の濃さが、心を揺さぶる。

今の私は柊介が作った。
身体も、感覚も、女の本能も。
そう思えるほどの恋だった。



それなのに、私たちは別々の人を求めた。
柊介だけを責められない。
私だって、エリーを求めたのだから。



あんなに愛した時間の果てが、ここ。

出会えて良かったなんて、今は思えない。

なんて悲しくて。
なんて痛い。


何度も何度も深呼吸をして。
それでも枯れない涙を、何度でも流し切って。










濡れた身体もそのままに、オイルも纏う前にベッドの上の携帯を取り上げる。
リダイヤルを押す。


柊介を、呼ぶ。


だけど繋がらない。柊介は応えない。



時間をおいて掛け直しても、一向に柊介に繋がることはなかった。
昨日はあんなに私を呼んだ携帯が、一度も自らは震えない。

必然なのか、偶然なのか。エリーが無事を調べてくれたから心は騒がなかったけれど。
それでも、やっぱり何かあったんじゃないかと感じた。

それなのに柊介を捕まえて、別れ話をしようと思う自分がひどく自分勝手に感じた。









久しぶりに、携帯を枕元に置いて眠った。
知り合った頃みたい。忙しい柊介から連絡が来るのが嬉しくて、すぐに応えたくて携帯が離せなかった。

真逆の話をするために、あの頃と同じことをしてる。


寝付けないかも。そう思っていたのに身体は正直で。
疲れが意識を引きずり込んで、深い深い眠りに堕ちていく。




そんな私を、柊介からの着信が呼ぶことはその夜一度もなかった。






< 98 / 269 >

この作品をシェア

pagetop