逃げ惑う恋心(短編集)




「一之瀬さんの遅刻癖を直そうって企画だったのに、意味ないじゃないですか」

「そうかもねえ」

 一之瀬さんは間延びした声でそう言って、アイライナーを置く。化粧直しは終わったみたいだ。でも大ちゃんのお菓子に手を伸ばすのはやめたほうがいいと思う。怒られろ!

「そうかもねえって……。十三万円もの罰金を払っているのに無頓着ですね」

 軽くアルバイトの月収並みだ。


 さっきまで仮眠をとっていたせいで少し乱れた衣装を直して、ようやく立ち上がる。
 もう開演五分前を知らせるベルが鳴っていた。急がなくては。わたしまで遅刻してしまう。


「俺が何度もお世話になっている演出家さんだって話、知ってるよね」

「一之瀬さん、一ベル鳴ってます」

「顔合わせの前に食事する機会があって、好きな子をデートに誘いたいんだけど、お金が飲み代に消えちゃうって話をしたら、じゃあ遅刻貯金をしようって」

「一之瀬さん、ベル……ええっ?」

 ばくんと心臓が鳴った。のは、開演直前なのにまだ楽屋にいるという焦りと、開演直前に思わぬネタばらしをされた動揺で、だ。

 好きな子をデートに? そのための遅刻貯金? ていうか十三万円あったら軽く旅行くらい行けちゃうんじゃ……。どんな初デートをするつもりなのだ。

「てことで千代ちゃん、公演終わったら、温泉でも行かない?」

「は……?」

 あ。まずい。台詞が飛んだかもしれない。

 好きな子って……。好きな子って……?


「あ! 一之瀬さん春野さんこんなところにいた! もう始まっちゃいますよ、急いでください!」

 スタッフさんが真っ青な顔で呼びに来たけれど、こういうことには慣れっこなのか、一之瀬さんは「はいはーい」と間延びした返事をした。



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