意地悪上司に求愛されています。(原題 レア系女史の恋愛図鑑)
26 陽の目を見た婚姻届
「麻友、そこに座っていて」
「あ……ええ」
 木島にソファーに促されるがまま座ってみたのだが、それも落ち着かない。
 一方の木島は冷蔵庫を開き、飲み物を用意してくれているようだ。
 その背中を見つめたあと、リビングを見回す。
 ロフト付きの1LDK。シックな色に纏められた家具は、必要最低限にあるといった様子だ。なんとなくだが木島らしいと思う。
 NYにある木島のマンションに初めて入ったときと同じで、ドキドキしすぎてテンパってしまう。
 なんせ生まれてこの方、男性の部屋に入ったことはなかった。
 NYの木島宅で初めて男性の部屋に入ったのだ。二回目だと言っても慣れない。
 こんなふうに仕事関係で頭が真っ白になるほど動転することはないのに。
 木島といると、万事がドキドキして胸が苦しくなる。
 初めの頃は真剣に病院に行こうかと考えたぐらいだ。
 それぐらい私の人生において、こんなに心を乱す相手に出会ったことはない。
 だからこそ、木島には真っ正面からぶつかっていきたいと思う。
 そのことで、木島が私から離れていってしまったとしても……。
 膝の上でギュッと拳を握りしめていると、目の前のテーブルにマグカップ二つ置かれた。
「ごめん。日頃ここには人を招かないから、気の利いた物を出せなくて」
 マグカップの中には並々とコーヒーが入っていた。香しい匂いは、私の心を少しだけ落ち着かせてくれた。
 木島は私の隣に座り、マグカップに手を伸ばす。
 大きくて、キレイな長い指。節くれだった手を見て男性を意識した。
 一口コーヒーを飲んだあと、マグカップを再びテーブルに戻す。
 その一連の行動をジッと黙って見つめていると、木島は小さく息を吐き出した。
「で、君からの話は何かな? いい話しか聞きたくはないんだけど」
「……いい話でないことは確かね」
「そうか」
 感情が読めない声で木島はポツリと呟く。
 木島の顔を見たくて、私は身体ごと向き直った。
 まっすぐに彼を見つめたあと、覚悟を決めて口を開く。
「だけど、木島さんには聞いてほしい。聞いてもらいたいのよ」
「麻友」
 ダメかしら? と真摯に聞く私を見て、木島は盛大にため息をついた。
「麻友にそんなふうに言われてしまったら、俺にとって悪いことでも聞かないわけにはいかないな」
「木島さん」
 ありがとう、と礼を言ったあと、ポツリポツリと家族の話をした。
 菊池という厄介な家に生まれ育ったこと。父親は自分を政治の駒の一つだと考える人で、私の主張など一切聞かない頑固親父だということ。
 そして、一番重要な話を木島にすることにした。
「さっき、木島さんは私に言ったわよね。会社を辞める決意はあるか、って」
 木島の顔をまっすぐに見つめると、彼は息を呑んだあと小さく頷いた。
 それを確認したが、私は慌ててマグカップに手を伸ばす。
 覚悟をしたつもりだった。だけど、土壇場になって臆病風が吹く。
 隠しておくわけにはいかない。こればっかりは木島に話しておかなければならないだろう。
 私としては、木島とずっと一緒にいたいと願っている。だけど、この案件をクリアにしなければ木島と一緒にいることはできない。
 コーヒーを一口飲んで心を落ち着かせようと必死になったが、やはり無理だ。
 ゆっくりとマグカップをテーブルに置いた。
 その手が小刻みに震えている。そう気がついたのは、木島が私の手を握りしめたからだ。
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