ベタベタに甘やかされるから何事かと思ったら、罠でした。

マンションに帰り着くと、夜の8時を過ぎていた。

エントランスに足を踏み入れる前に、透明な自動ドア越しに明かりのついた管理人室が視界に入る。あぁ春海さんいるなぁ、そりゃいるよなぁ……と頭の中で独りごちて、なるべくあっさりと通過しようと心に決める。できるなら今は誰とも話したくなかった。



管理人室の前を通りすぎるとき。



「おかえり、ひなちゃん」



いつもと変わらない柔和な声が私に挨拶した。私は足を止めずに自分の部屋へと向かいながら軽く会釈する。不自然じゃないくらいに笑って見せる。



「こんばんは、管理人さん」



それだけで終わり。



「……ひなちゃん?」



彼は不思議そうにつぶやいたけれど、私は振り返らなかった。今日の春海さんはさすがに何か察したのかしつこく食い下がってくることもない。……助かった。



今誰かとまともに話そうとしたとして、相手を困らせない自信がない。急に目の前でぼろぼろと泣かれても困るだろうし、私だって説明したくないし。

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