駆ける

01


今まで生きてきて、怖くてできなかったことが、
彼と出会ってからできるようになった。

ーーー

私がお風呂から出ると
彼がこちらに背を向けてこそこそと何かをしていた。

静かに近寄り濡れた髪をかきあげながら、
彼の肩に顔を寄せる。

誰も見ていないテレビがうるさくしゃべり続ける。

彼が私にきづいてビクッとふるえた。

そのとき一瞬携帯画面に女の名前が見えた。

「ねー。なにしてたの?だれ?」

私の問いかけに彼は微かに笑いながら、

「友達だよ。仕事のことで相談されてて…。」
と耳を触りながらいった。

彼が耳を触るときはだいたい嘘をついているときだ。

「ふーん。」と全く興味のないふりをして私は彼から離れた。

けれど内心どうしようもなく動揺していた。
血の気がひいた、という表現がぴったりだった。

彼がまさか裏切るなんて。

そのときから、
いままでは気にならなかったことが一々気にかかるようになった。

彼が携帯を見ていたら、
『ああ。あの女と連絡をとってるのかな』とか、
何もせずぼーっとしているときは、『あの女のことを考えてるのかな』とか。

彼を信じられない自分が信じられない、
なんて思わなくて、
ただ、信じさせてくれない彼が信じられなかった。

どうして。
約束したのに。
私を囲って彼だけの世界に閉じ込めてくれるって。

彼といるだけで生きている実感が湧いて、
もう自ら傷をつけようなんて思うこともなくて、
彼がいるなら生きている。って思えたのに。

目の前にいる彼を見つめる。
こんなにも愛しいのに彼は私裏切っている。

本当に愛しているなら相手の幸せを願うのが当然だという人もいるけれど、
私は彼が私を幸せにして私を幸せにすることで
彼が幸せになってくれるというストーリーじゃなくちゃ嫌だ。
愛ってそういうものじゃない。
たとえばそれが愛じゃないと批判されたとしても構わない。
そうやって堂々と言えていたのは、彼がわたしを欲してくれていたからだ。

今はどうなのか。

「ねぇ。明日、映画見に行こうよ。」

「何か観たいのがあるの?」

彼がこちらを向く。
そんなに綺麗な瞳で、今、彼は私越しにあの女を見ているの。

うん。もうすぐ終わっちゃうのがあるの。」

「ふーん。どんなの?恋愛もの?」

「ううん。フランスの映画。」

「マイナーなの好きだよな。」

「えーべつにそんなことない。」

「何時から?」

「夕方。」

「あー…。」

「何?」

「んー。いや。」
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