図書恋ーー返却期限なしの恋ーー
苦手なひと
 ヤな奴だと思う。きらい、とはちょっとちがう。苦手に近い。なんだけどやっぱり、きらい、なのかもしれない。
 こんなふうに、すやすや眠ってるところを見ると特に。

 目の前の机の上、組んだ両肘を枕代わりにして突っ伏している若い男。彼の呼吸にあわせて肩が上下にゆっくり揺れる。今日もきもちよさそうに眠っている。
 
 わたしはおなかに力を込めてフーッと鼻で息をすると、彼が寝ている机の脇にある窓に引かれたカーテンを、ひとつずつ引いていった。これでもか、これでもか、というくらい強く。シャッシャッとカーテンを引く音は静かな室内によく響いて、開いた窓から順々に日差しがふわぁと降り注ぐ。

 窓の外は、五月晴れ。ゴールデンウィークからずっと空は機嫌の良い青空。眠たくなる気もちもわからないではないけど、ここは休憩室でも保健室でもない。
 光を浴びて驚く夜光虫のように、後ろの男が声と音の間のようなうめき声をあげた。

 わたしはじろりと振り返る。彼の後ろ、窓際と反対の壁には、明かり取りの窓の下に本棚が部屋の隅から隅まで並んでいる。本棚と窓の境には、「2 歴史」や「3 社会」と書かれているポスターが貼られていて、漢字には丸みのある字体でルビが振られている。書架の隣にある掲示板には、女の子が本を持った絵が描かれたポスター。ひらがなばかりの文字で、「かりた本は、もとのばしょにかえそう!」と書かれている。

 区立白峯(しらみね)小学校。この小学校の図書室が、わたしの職場だ。大事なことだから二回言う。神聖な、職場。
 わたしはうめき声を上げたっきり動こうとしない男に向かって言った。
「起きてください」
 男にしては柔らかそうな髪が、のそりと揺れる。青色のジャージ姿なのはこの後が体育なのかもしれない。
「小林先生。もうすぐ授業はじまりますよ」
 重ねて言うと、男はゆっくりと顔をあげた。
「あぁ。来てたの」
 なによ来てたのって。
 わたしが返事の代わりにフンと鼻で息をすると、彼は応えるようにふわぁと呑気なあくびをした。

 もう少し量を梳いても良いのではないかと思わせる、ややもっさりした黒髪の先が跳ねているのは天パなのかパーマなのか。知り合って一ヶ月ちょっとのわたしにはどちらかわからない。眠気の名残を残してやや重たそうな目は、目尻に向かって幅広になっている奥二重寄りの二重。いつものネクタイ無しのワイシャツ、パンツ姿じゃなく、ジャージなんて着ていると見た目はまるで大学生のよう。

 実際、社会人より学生に近いところにいる。二十五歳。今年二十六なら学年一緒、みたいな話をしたら、あっという間に敬語が消えた。本当はどうか知らない。

「あ、もうこんな時間。やべ次バスケなんだ」

 慌てて立ち上がりながら、音楽室もっと遠きゃいいのに、とぶつぶつ言ってる。六年二組の今の時間は音楽だったらしい。音楽や図工は専門の先生が担当するから、その時間担任は手が空く。空くといっても普段やれないテストの採点をしたり、廊下の壁に貼る掲示物の準備をしたり、みんな忙しそうにしている。小林先生みたいにぐうぐう眠っている先生なんてほかにいない。

 この人、こんなんでまともに授業してるのかな。そう思っていると、

「やっぱここはよく眠れるよな」

 振り返った小林先生がニヤリと笑う。悪戯が成功したことを喜ぶやんちゃ坊主みたいな。ふてぶてしい三下系じゃなくて、クラスのリーダー的存在の方の。小林先生はお母さま方からの受けが良い、とどうでもいい情報を教えてくれたのはだれだったか。

「教室か保健室でお休みになったらどうですか」

 この台詞を口にするのはもう何度目だろう。ウンザリしてることを隠さない顔と声音で言うと、

「いやだね」

 ドアに手をかけた小林先生は、不遜な言葉を快活に言い放つ。さわやかなその顔は、着ている光沢のある青ジャージに似合っているから面白くない。
「こんな良い仮眠室、手放せねーよ」
 引かれたドアがピシャンと閉まって、急いで廊下を走る音が聞こえる。わたしは唇をへの字に曲げて、フンっと強めに鼻から息を吐いた。

 小林哲(こばやしてつ)、やっぱりイヤな奴だ。
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