図書恋ーー返却期限なしの恋ーー
波乱含みの運動会
 ゴールデンウィークからずっと続いていた晴天は、ここ数日その調子を崩していた。前日まで雨かな、延期かな、と心配されていた運動会は、なんとか曇りで落ち着いた今日、予定通りに決行された。若い女性の先生たちは、これくらいの天気の方が焼けないでいいよねぇなんて笑っていた。
 全部全部、どうでもいいことだ。

 校庭の隅に建てられたいくつかのテント。そのうちの一つ、教員用にあてがわれたテントの下に、校舎から運び出されたパイプ椅子がひしめき合っている。普段図書室から出ることのないわたしも、今日ばかりは一日ここにいなければいけない。そのことが苦痛でしょうがなかった。

「はいこれ」
 隣に座るまどか先生が、わたしの手に運動会のプログラムを渡してくれる。ほとんどの先生がジャージ姿の今日、まどか先生はいつもと変わらず白衣を着て、突発的な怪我人が増えるこの日に備えている。

「大丈夫? 調子悪そうね」
 最近、顔を合わせるたびにまどか先生からそう言われていた。最初のうちは、彼から元気をもらいなさいよぉとか、二人そろってウチのお世話になる気なの、とか笑いながら言っていた。けれどそのたびに顔を強張らせるわたしをどう見たのか、次第に哲のことには全く触れなくなっていた。

「いえ、大丈夫です」
 こう答えるのも毎回のことだ。心配気に様子を窺う視線に耐えきれなくて、プログラムを見る振りをした。

 あの図書室で会った日を最後に、哲とは一度も話してない。ときどき運動会の練習をしてる声が校庭から聞こえてきたけど、絶対に窓の外は見ないようにしていた。
 学校司書と先生なんて、哲が図書室に来なければあっという間に接点はなくなる。

 これでいい。もうずっと、これでいい。
 ロストヴァージンが人生で一番最悪な思い出だなんて、すごくみじめだ。

 哲はあと何年この学校にいるんだろう。学校の先生は、三年くらいで違う学校に異動になる。もし来年度も哲がいるようだったら、わたしが異動しよう。
 こんなに、始終息をひそめるみたいに生きていくのなんて、耐えられない。

 ぼんやりプログラムを見ながらそう考えていた時、まどか先生に声をかけられた。
「ね、亜沙子先生はこれ出るの?」
 まどか先生が指で示したのは運動会の最後の種目から二番目、「借りもの競争」だ。運動会のラストは六年生の組体操で締める。その前に行われる余興のようなプログラムで、子どもたちのほかに先生も出ることになっている。
「理科室のフラスコ」とか「校長室の花瓶」とか「トイレ用具」とか、先生の方だけ毎年書いてある「借りもの」が大変で、見てる側は大いに盛り上がるらしい。

「いや出ないですよ」
 校舎まで戻らなくちゃいけない「借りもの」が多いから、出る先生は大体が男の先生だ。きっと哲も出る。そう思うと、胃が冷たい手で捕まれたような気がした。

 そうよねぇ、と頷いて去年の運動会の話をするまどか先生の声はあまり耳に入ってこない。
 ふっと視線を遠くに飛ばす。校庭の反対側で、子どもたちを並ばせて指示をする哲の姿があった。見慣れた青いジャージ姿。

 どうしてあんなに遠くにいても、すぐわかってしまうんだろう。
 なにがいやって、これがいやだ。
 まだ哲のことを探そうとしてしまう。考えてしまう。体と一緒に心も明け渡して、それが返ってこない。
 図書室の本みたいに、何日までに返却してくださいと言えたらいいのに。

 今もまだ、わたしの心はあの最低男に捕らえられたままだ。
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