309.5号室の海

「この嘘つき女。あんま調子乗んなよ」


そんな声が、背後から聞こえた。
振り向くと、給湯室の入り口にもたれかかるようにして、滝本が立っていた。

田中さんは、サーっという音が聞こえてきそうないきおいで顔を青くして、私から一歩距離をとった。


「弁解すんの面倒だし噂も放ったらかしにしてたけど、他の奴巻き込んで迷惑かけるようなら俺も黙っとくわけにいかねーわ」

「迷惑だなんて、そんな私、」


慌てて首を横に振る田中さん。
好きな人には、どうしたって嫌われたくないだろう。涙目になってるようにも見える。

どうしようかと考えて、テーブルの上のコーヒーメーカーを見た。サーバーにはすでに黒い液体が溜まっている。


「ごめん、私コーヒー早く飲みたいんだよ。切り上げていい?」

「あ、じゃあ私、部署に戻りますっ」

「おい、ちょっ……」


田中さんがせかせかと給湯室を出て行った。

私は棚から自分のカップを取り出して、コーヒーを注いだ。少しだけ、砂糖も入れた。


「……お前」

「いいよもう。ありがとうね」


肩透かしをくらったような顔で、滝本がため息をついた。
給湯室に私と田中さんが入っていくのが見えて、もしやと思って来てくれたんだろう。滝本はこう見えて人思いだと知ってる。
< 40 / 83 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop