309.5号室の海

今、なにも言わなかったら、きっともっと誤解を生む。上手く先へ進めなくなる。

たとえば、この309号室と310号室の間には、ものすごく広大な海があるとして。
今まではその中を、意志を持ってまっすぐ泳いで進めていたのに。
ちょっとしたことで、なんだかすごく暗く深く感じてしまって、指針を無くしてどこへ行けばいいのか、どうやって泳ぐのかわからなくなって。

もがけばもがくほど、溺れてしまうんだ。


「彼氏じゃ、ありません。あの人は会社の同期です。それだけです」

「……星野さん」

「本当です。だから、邪魔だなんて、言わないでください……」


消え入りそうな、絞り出した声でなんとか誤解をとく。

突き放さないで。
離れていかないで。
せっかく近付いたこの距離を、振り出しに戻さないで。


すると、掴んでいた手を、逆に掴まれて、握られた。


「……ごめん」

「え、」


ふいっと、そっぽを向いてしまう蒼井さん。


「かっこわる、俺。でもごめん、ちょっと今顔見ないで」

「どうしたんです、か」


見ないでと言われれば、見たくなるのが人間だ。蒼井さんの耳が、ちょっとだけ赤くなってる。
かっこわるいだなんて。蒼井さんはいつだってかっこいいのに。


「……よかった。俺の、勘違い」


安心したような声色で、聞こえてきた言葉。
私、もしかしてちょっとぐらい、期待してもいいのだろうか。家と家の距離よりもっと、近い存在になること。



ようやくこっちを見てくれた蒼井さんと笑い合いながら、だけどどうしても、ここを出て行くかもしれないことは、言えなかった。


< 50 / 83 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop