309.5号室の海

入社して以来、コツコツ積み重ねてきたものが実を結んだ。そういうことだ。
それは働く人間として、これ以上ないほど喜ばしいことだった。

仕事をしていくうえで、より上を目指せるというのは嬉しく思う。
本社へ引き抜かれるなんてみんなに羨ましがられるだろうし、自分でも胸を張れる。

だけど……。

少し前なら。
まだ、すれ違ったときに挨拶を交わす程度の関係だった、あのときなら。
きっと迷わずにここを離れただろう。

浮かんでは消えていく、彼の顔。
今ではもう、こんなにも離れがたくなってしまった。


でも、そんなことを理由にこの話を断るなんて、それは今まで働いてきた自分に対して失礼だと思った。
仕事とプライベートは切り離せとはよく言ったものだ。


「どうしよう。…え、どうしよう」


決められない、まだ。
急いで決めたって、自分が納得出来なかったら、どっちを選んだってきっと後悔する。
それだけは嫌だ。

スカートをぎゅっと握りしめて、唇を噛んだ。
どうしてこんなに、悔しい気持ちになるんだろう。どう頑張ったって、どちらか1つしか選べないことぐらい、わかってるのに。


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