恋は人を変えるという(短編集)
終日、きみのことばかり



 紆余曲折あって付き合い始めて数ヶ月。最近、彼女の様子がおかしい。

 そう気付いたのは、つい数日前のことだ。

 数日前、仕事帰り、何の連絡もなく彼女の部屋を訪れた。「いつでもどうぞ」と言ってくれたし、合鍵もくれた。だからこっそり部屋に入って、油断している彼女を驚かせようと。
 年甲斐もなくそんな悪戯を考え、実行した。

 音を立てずに部屋に侵入すると、彼女の声が聞こえた。どうやら電話をしているらしい。

 なら少し待つか、と。短い廊下で息を潜めていたとき。

「だって吉野くんが何度もダメって言うから! わたしどうしたら良いかもう分かんないよ」

 電話の相手が「吉野くん」という男だということが分かった。

「一緒に温泉に行ったときに渡すつもりだったのに。絶対吉野くんのほうが得意なんだからさ、もう吉野くんやってよ……」

 そして「吉野くん」と「一緒に温泉」に行ったということも。

「だってもう時間ないし……。うーん、じゃあやってみるから。吉野くん、いつ時間取れる? 明日は? わたし吉野くんとこ行くから」

 どうやら彼女は「明日」「吉野くんのところへ行く」約束をしたらしい。

 ていうか、吉野くんって誰だ? 吉野くんは彼女の何なんだ? 何の約束をしているんだ?



 彼女と出会って六年。

 当時の俺には、転勤するからと焦って籍を入れた嫁さんがいて、俺が店長をしていた店のスタッフだった彼女に惹かれつつも気持ちを隠すしかなくて、でも少しでも仲良くなりたくて、そのせいで他のスタッフに不倫疑惑をかけられて嫌がらせを受けて、そんな状況なのに地元の店に戻るよう言われて。最後に話したとき、彼女はひどいくまを付けた顔で俯き、泣いていた。

 地元に戻ってからの五年間、彼女を思い出そうとすると必ずあの疲れ切った表情が浮かんでしまって、その度に胸が痛んだ。
 とっくに破綻していた結婚生活が終わり、またこっちに来ることになって再会して、隠してきた気持ちを伝え、ようやく付き合うことができたから、幸せすぎてすっかり安心していたけれど……。

 忘れていた。俺が気持ちを隠して連絡を取らずにいた五年間、彼女も彼女の五年を過ごしていたんだ。俺の知らない友人や知人、元恋人のひとりやふたりはいただろうということを。

 そもそも彼女に惹かれて離れるまで、数ヶ月しかなかった。俺は彼女の人生の大半を知らないのだ。



 このまま黙って帰るべきか否か。短い廊下を行ったり来たりしていたら、床がみしっと鳴って、彼女の声が止まる。
 そして携帯片手に勢いよくドアを開けて、驚いた顔。

「ごめん、切るね」

 すぐに、困った顔。

「佐原さん、もしかして今の話、聞いてました……?」

 彼女の困った顔に胸が痛んで、俺は思わず「何が? 今来たとこだから聞いてないよ?」と嘘をついた。




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