雨音の周波数
「そんな顔するなよ。急に笑って悪かった。確か君が大学三年の夏休みのときかな。冷蔵庫に入っていた杏仁豆腐が、小野のだって知らなくて僕が食べちゃったんだよ。そのとき冷蔵庫の前で"杏仁豆腐を食べたの誰ですか!"って怒ったのを思い出してね。変わってないね」

 言われて思い出した。その杏仁豆腐は夏季限定のコンビニスイーツで、食べるのをすごく楽しみにしていたんだよね。

「そんなこと忘れてください」
「二十歳で出会って十年後には結婚話をしている。世の中って何が起こるかわからないよね」
「そうですね。二十歳の頃は、まさか社長に騙されて、社長とお見合いをするとは思いませんでした。あの大倉昇さんのプロフィールって、佐久間さんがわざわざ考えたんですか?」
「ああ。違和感なかっただろう」
「そうですね。ああ、もう作家って嫌だ。堂々と完璧な嘘を吐くんだから」
「それは嫌だな。よくわかる」

 私たちは同時に吹き出した。


 食事を終え、佐久間さんの運転する車で駅まで送ってもらった。

「あの、ごちそうさまでした」
「うん。今日の返事は急がないから。それと会社ではいつも通りにして」
「はい。わかりました。送ってくださりありがとうございました。お休みなさい」
「お休み。気をつけて」

 助手席から降りてドアを閉めると、車はすぐに他の車に紛れて見えなくなった。

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