今日は恋に落ちたい
「おいしそうなもの、食べてますね」



不意に耳をくすぐった声に顔を上げる。

声が聞こえてきた自分の右側に視線を向けて、まず目に入ったのはグラスを掴む黒くてゴツい腕時計をはめた大きな手。

そのままさらに視線をずらした先にあったのは、反対の手でカウンターに頬杖をつきながら私を見つめる男の、やわらかくもどこか胡散臭い笑顔だった。

突然話しかけられたことを怪訝に思いつつ、一応私は答える。



「ええまあ。有名なお店のものらしいので、おいしいですよ」

「へぇ。そのわりに、さっきから険しい顔して食べてますよね」

「……ほっといてください」



なんなんだこの人。やたら整った顔をしているけど、初対面にしてはすごく失礼なことを言ってくる。

思わず眉を寄せる私を見て、男は何が楽しいのかくすくすと笑う。なんだか釈然としないながらも、私は自分の目の前に置いていた箱をすっと右側に差し出した。



「よかったら食べますか? お好きなのどうぞ」

「ああ、いいの? ありがとう」



急に砕けた口調になったその男にうなずいてみせると、彼は迷いなく真ん中の列の1番左端にあったチョコレートをつまみ上げた。

彼が手を伸ばした瞬間、ふわりと嗅いだことのある香りが鼻先をかすめた気がした、けど。その香りの名前に行き着く前に、一瞬感じたはずのそれは空気中へと霧散した。

なんとなく、その綺麗な指先のあとを視線で追う。トリュフだと思われるその丸いチョコレートは、ゆっくりと開いた彼の口の中に消えた。



「うわ、美味いなこれ。いい値段したでしょ」

「……さあ、どうだったでしょうね」



本当に驚いたような男の言葉には曖昧な返事をして、気に入ったならとさらに箱の中身を勧める。

シャープな輪郭に通った鼻筋、切れ長の瞳にかかる少し長めの黒い前髪。やわらかな素材の黒いジャケットに白いインナーと、カジュアルすぎないコーデを着こなすいかにも”大人の男“といった風格の彼は、見かけによらずどうやら甘党らしい。うれしそうにお礼を言ってまた手を伸ばしてきた。
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